syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 105 仮  面  <掌編26>

          

             月下美人 季節の花300より
         花言葉「はかない美」「はかない恋」「あでやかな美人」


 彼女はいつものように彼の帰りを迎えるために駅の西口、向かって左の入り口の端の方に立っていた。出札口から出てくる勤め人の中に彼の姿を求めていた。


 出札口から出てくる客がまばらになり、一段落ついたけれども彼の姿は現れなかった。結婚して三年経ったがこんなことは一度もなかった。次の電車を待ったが次の電車にも彼の姿は現れなかった。何かあったのではと思いながら彼女は駅を後にした。


 11月の風は冷たい。日の入りが早くなり、夜のネオンが暗さの中に浮かんで見えた。西口駅から15分ほど歩いた静かな地域のマンションに住んでいるので交通の便は申し分なく環境は満点に近かった。


 彼女が西口駅から30メートル程離れた時、40代ぐらいの男に声をかけられた。


 「お嬢さん。いかがです。仮面のお遊びをしてみませんか。」


 彼女は男の声を聞き流して静かな歩調で歩いた。


 「進歩しましてね。昼間でも曇った日は見分けがつきません。自分の好みの顔が30分で完成します。一晩結構楽しめますよ。700円です。もしそんな気になりましたらどうぞ。」と言って、40代ぐらいの男は彼女にチラシを手渡した。


 明かりのもとで手渡されたチラシを見た。


 駅裏、3の2 源田浩三 人形師  と、手書きで書かれていた。


 9時を過ぎたが彼は帰って来なかった。彼女は食事を済ませて風呂に入り彼の帰るまでの夜のひとときを過ごした。これまでに連絡なしで遅くなることは一度もなかった。それだけに急に不安になった。不安になると今までに考えたこともなかった想像が頭を過った。


 彼女は今一度彼のアルバムを初めから念入りに観察を始めた。学生時代の写真から始まって現代にいたるまでの写真が几帳面な彼の性格を表すように一枚一枚解説が付けられて貼られてあった。


 彼女が想像したような写真はなかった。ただ一枚だけ上半身の運転免許を受けるときか就職試験の履歴書に貼るものか、若い女の写真があった。


 彼女は彼のアルバムの中からこの一枚の女性の写真をじっと見つめた。どこかであったことがあるような気がした。よく見ると、顔だちのよい清潔な感じがみなぎっている女の子であった。今まで気づかなかったことに驚いた。


 彼が帰宅したのは十時を少し過ぎていた。
 「連絡も取らずに遅くなってごめん。どうにもならない要件ができて、今日は疲れた。」と、彼は優しく今夜の件を説明した。
 いつもの彼とちっとも変っていないのに彼女は安心した。


 しかし、その後もたびたび連絡なしに帰宅時間の遅くなることがあった。そんな時、彼女は何となく不安になる。彼との生活が消えていくのではないかと考え込んでしまう。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、想像だけは大きく膨れ上がり更に彼女を不安にさせるのである。


 彼女はある日、一つの実験を思いついた。彼のアルバムの中から唯一の女性の写真をそっと剥ぎ取るとコートのポケットに忍ばせて、駅裏、三の二 源田浩三 人形師の家へと向かった。


 椿の花が山の端に入りそうになった夕日を受けて不思議な赤さを増していた。


 源田浩三の家は思ったより随分と大きく古風などっしりとした風情を保ち、金持ちの主人が道楽に「仮面」の趣味を楽しんでやっているといった感じがした。表札とこじんまりとした看板が信頼感を与えた。


 彼女は躊躇することなく源田浩三家の門をくぐった。彼女は先日貰った名刺と例の写真を源田浩三に渡した。
 指示された椅子に腰を下ろすと、その横のスクリーンに、今、手渡した写真が拡大されて投影された。冷たく感じるゴムのようなものを顔に付けられた。数分間はそのゴムのようなものを意識したが、顔が仕上がるにつれて異物感は消えて、自分の一部になっていくのを感じた。


 「終わりました。」と、人形師は鏡を向けた。
 全身映せる等身大の鏡の前に立って、彼女は満足をし、得も言われぬゾクッとする不思議な感情が走った。彼女は以前の彼女ではなかった。料金を支払うと腕時計を見て駅へと急いだ。


 駅から一番近い曲がり角に立って彼が出札口を出てくるのを待った。彼女は彼が出てくるのを確認すると静かに駅の方へ歩き始めた。ごく自然に彼に分かるようにすれ違うだけでよいのだ。その時の彼の様子を見たいのだ。そう思うと体中を異様な血液が駆け巡るのだ。


 遂に彼は見た。あゝ、その驚きよう。これまでに彼のあのような慌てぶりを彼女は見たことがなかった。彼女もこれほどに男性から見つめられたことはなかった。


 通り過ぎる瞬間、彼は立ち止まった。彼女は背中に全神経を集中させて彼の様子を感じ取ろうとした。彼の様子を感じながら駅の雑踏の中に姿を消した。


 化粧室に入ると仮面を水で流した。水の冷たさが頬を刺した。鏡に映しだされた素顔の眼から涙が落ちた。力なく彼女は家に帰っていった。


 彼女の気力のなさとは反対に彼は興奮していた。彼女が玄関を入るなり彼は彼女の手を取り部屋に彼女を引き入れた。


 「逢ったんだよ。若い時に亡くなった妹に。」彼の声は震えていた。彼女はどうしてよいのか分からず彼の胸の中に顔をうずめた。涙があふれた。(ごめんなさい。)と何度も繰り返しながら彼の腕の中で謝った。


 彼は穏やかな声で「逢えてよかった。」とつぶやいた。その言葉を聞いて彼女は深く呼吸をして微笑んだ。


 翌日、彼女は彼のアルバムに妹の写真を確りと貼った。

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