卒寿小論 43 へ ど <掌編10>
大分合同新聞掲載の挿絵より
初秋の風に誘われて、別府の郊外を歩いていた時のことである。
白髪の白衣を身につけた一見医師風の老人が、松林の中から姿を現し、私に声をかけた。
「散歩ですかな、人の通らない生まれたばかりの風景の中を歩くのは好い気もちですな」
「ええ、少し胃腸を悪くしたもんですから、こうやってぶらぶらしているんです」
「朝のぶらぶらが、病気には一番いいクスリです。特に胃腸病には」
「お医者さんですか」
いつか私は老人と肩を並べて歩いていた。一望に別府湾が朝の光に踊り、緑の中から湯煙が天にいく筋も吸いこまれていた。
医師はぽつりと話し始めた。
「大病院に勤めていたんだがいろいろありましたし、健康も害して、今は開業医として役にもたたない研究をしながら、ここに住んでいるんです」
個人的な事情は何も間かないことにした。人間の世界に起こる事件にそれほど突飛なものもあるまいから。
「研究といいますと」
「気のむくままですな。昨年の暮れ、奇妙な虫を発見しまして、現在はその虫とにらめっこです」
「奇妙な虫といいますと」
「目も鼻も耳もない。ただあるのはからだと消化器官と生殖器官だけなんだ」
「ほう」
私はどんな虫を想像してよいのか見当がつかなかった。この老医師にもまだ虫についての詳しいことはわかっていないのだということは感じ取れた。
「奇妙な虫に名前をつけましたよ。ヘドと」虫の名前から瞬間、私は想像した。
「おう吐」その虫を見るときっとおう吐を起こすのか、その虫自身が胃腸病患者のようにおう吐を催すのか、それとも「ヘドニズム」(快楽主義)に徹したエロ的な虫であろうか。また、ベトカビ科菌のように植物に寄生し植物全体を枯らしてしまうような虫であろうか。まあいい、どちらにしても面白い皮肉のきいた名前をつけたものだ。
ヘドと名前をつけられた虫にも興味を覚えたが、ヘドと名前をつけた老医師にもよリ親しみを感じた。
「生命力のある虫でね。動物の肉、野菜、果物、人間が食するものなら何でも食べる。いよいよ食べ物がなくなると自分たちの排泄物を食べて生きて行く」
まさにおう吐というなにふさわしい虫だ。
「ところが面白いことがあるんだ。食べ物の有無にかかわらずある「ヘド」と、ある「ヘド」とが食合いを始めるんだ。すると周囲に居るヘドたちが輪をつくって勝負のつくまで見ている。勝ったヘドが相手のヘドを食い終わるとそのヘドが、その集団の中のボス的存在になってしまう」
老医師の話をきいているうちに私はふっと、かつてヘドを見たような気がした。
話を続ける老医師の顔は正義感に満ちた青年のような顔でもあり、老熟しきった仏様のような顔にも見えた。
松林を通り抜けた所に、庭園らしい広場があり、咲き残りの松葉ボタンが土にまみれて腐れかけていた。
私は老医師に尋ねた。
「そんなことが度々起こりますか」
「そうだな、周期というようなものはないが、三、四か月に一度くらいかな」
「それからどうなります」
「どうにもならんよ。何もなかったように前と同じ生活を繰り返すだけだ」
「繁殖はどうです」
「増え過ぎることはない。食合いをしなくても、適当にヘドは死んで行く。その死に方が不思議なんだ。昨日まで盛んに食べていたかと思うと、今日はまったく食べなくなり、おう吐し、下痢をし、体が消滅してしまう。まるで自殺行為だ」
「原因は」
「皆目わからん」
私は確かにヘドにあったことがある。しかし、はっきりとは思い出せない。
「ヘドの食合いや自然消滅が何から起こるものなのか。ヘドの生理なのか。ヘドの本能なのか。ヘドの社会なのか教育なのか、わからん。その辺の解明のために、今、暇をつぶしていますよ」
庭園の向うに一軒の家が人間とは関係がないといった風に建っているのが見えた。よく通る場所だが、この家を見たのは今日が初めてのようであった。家を指差して老医師は言った。
「よって、ヘドを観察してみませんか」
私は老医師の誘いを丁重に断って別れのあいさつをし、右に曲がった。
確かに会った。ヘドを観察に行くまでもない。ヘドは自分の中にも、自分の周リにも、無数に存在している。からだと大きな口と、消化器と、生殖器のヘド。突然仲間同士で食合いを始めるヘド。ボスヘドはどんな姿、形をしているのか、ちょっと観察してみたいような気もしたが、また、チャンスがあれば行くことにして我が家へ帰った。