卒寿小論 551 「尊敬」から「憧れ」の社会へ
学生時代に「尊敬」できる医師にめぐり逢ったことを幸せに思う。
一言で言うなら、「和顔愛語」を地で生きた医師である。
いつも悠々自適の風格で、どの患者に対しても公平平等に接し、
的確な診断と治療を行った。
夜は、家の電話を解放して、心配事があるときはいつでも電話を掛けられるように配慮し、
電話でも適切な処置を支持していた。
この医師の姿に接するたびに私もこの先生のように生きようと思ったことである。
心底から「尊敬」のできる医師であった。
しかし、あまりにも素晴らしい医師に若いうちに出会ってしまったので、
それからが大変であった。
「尊敬」という言葉が死語になっていくような社会現象の中で、
かつて「尊敬」した医師に遥かに及ばない医師との出会いが、悲しかった。
中に一人だけ、「尊敬」した医師に匹敵する医師との出会いがあり、ほっとしている。
戦後すぐの昭和30年代ぐらいまでは、教師に対しても「尊敬」の念が強く残っていた。
学校を出たばかりの新米先生も父母や地域の人々から大切に扱われた時代があった。
いつのころからか、医師を初め、教師、政治家、起業家とあらゆる分野で、
「尊敬」という言葉が薄れていった。
現代では、「尊敬」は死語に近い言葉になりつつあるように思える。
「尊敬」は死語になりかけた代わりに「憧れ」という言葉が台頭してきた。
「尊敬」という思いがあって初めて「正義」も生きてくる。
「憧れ」では「正義」は生かされない。
「尊敬」という言葉が生きてくる社会が良いのか、
死語になっていく社会の方がよいのか。
保守党と言われる政治家の一番の考えどころではないだろうか。
「尊敬」「美しい日本」「伝統」「正義」をどう復活させていくのか。
保守党の考えを聞きたい。