syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 91  そ ぶ り  <掌編24>

「去る者は日々に疎し」と言われるが、学生時代までの友情もお互いに結婚し、家庭ができ子ができ、職場がちがうと、もうそれは回想の中でしか感じ取ることのできない凍結したものになってしまうことが多い。


 彼も私も、家はそれほど裕富ではなく、かといって他人が目をふさぐ程の貧乏でもなかった。昭和初期における下級官吏程度の生活ぶりであった。


 彼と私は、学力の点でも体力の点でも似たかよったかの、まあ普通児であった。だから、二人ともやや似かよったコースをたどって、旧制中学より新制大学へと、私は地方の大学へ、彼は東京の教育大へと進んだ。


 彼と私の大きなちがいは、彼は「まね」をするのが実に上手であった。彼が小学校の一・二年生だったろうか、犬の交尾を見て、さっそく道のまん中でそれを「まね」して、父に見つかりいやというほど頭を殴打されたが、彼のまねぐせはより磨きがかけられ年令相応に発達していった。


 旧制中学に入学するや、彼は色白になり額に三本ほどのしわを寄せて、インテリ青年のまねを始めた。手にはよくカントかショ-ベンハウエルの哲学書、時にはハイネの詩集かなにかを携帯していた。


 彼が、東京の大学に入って長期休暇のたびに帰省した姿は、東大生の雰囲気を十二分にかもし出し、女をひきつけるテクニックも磨きがかけられていた。


 彼も私も無二の親友としてお互いに影響しあいながら、今日までそのつき合いは続いている。性格の面においてかなり異質なものを持ちながら、親友として腹を割って本当のことを話し合える友というのは、私にとって彼のみで、彼にとっても同じことが言えた。
 だから、彼が東京の教育大を優秀な成績で卒業し、東京の超一流高校に就職してからも、最低一年に一回は、帰省し歓談の機会を持った。


 それが今年で二十三年目になった。


 彼が帰ってくると、彼も私も、妻や子どもを親の家にほっぽり出して、学生時代にかけまわった山野や海へと足を伸ばした。
 汗をかきながら登る夏の由布山もまた格別である。頂上につき腰を降ろすと、今までかいていた汗がさっとひく、あわてて上半身裸になり、お互いにタオルで背中をこすり合う。


 マホービンにつめてきた氷で水割を作りグラスをあける。
 「三ちゃん」というのは、彼のことで、熊本三千男という。中国の詩などでは、白髪三千尺とか大きなことをいうのに比喩して、三千ということばを使うが、彼にはとってつけの名前であると思っている。
 けっしてホラ吹きではないが、「三ちゃん」はそれに近いい性格を「まねの天才」として兼備えている。


 夏の雲が、濃い青空の中に点々と、あるものは山にからみつきあるものは風に流され、ゆったりと光の影を移動させていた。


 「三ちゃん、自分みたいに地方に住んでいる人間は、教育界は発展しているのか停滞しているのか、後退しているのか、時々わからなくたる。
藤村の破戒に描かれた教師や教育界とあまり大差はないんじゃないかと思うよ、勿論、外面は確かに変わった。ふろしき包みを小脇に通勤する教師のかわりに、自家用車通勤の教師が増加してきたし、もの言わぬ教師から、権利を主張する教師と、しかし、それも極く表面だけでやはり何か大切なところは昔のまんまじゃないかな」


「確かに君の言う通りかも知れない。しかし、教育というものがそもそもそうたやすく変わるようなものじゃない」


 私は彼のことを小学生の頃から、「三ちゃん」と呼び、四十代になってもいまだに、「三ちゃん」と呼ぶが、彼は東京に出てより私のことを「君」というようになった。あらたまって、君といわれても彼の言い方は極く自然で嫌みはまったくなく、ただそれだけで彼が都会人であり、東京の人であることを十分に証明できた。


「東京にいると、教師も教育界もずい分と変わったという実感を憶える。それは、私が高校に勤めているせいかも知れないが、非常に個人中心の世界をみんな大事にし、教職をビジネスと割切って他人への干渉がない。今のように、個人の権利意識が強くなった時代では、校長になりたがる人間も少ないし、みんなそれぞれ自分の専門に突き進んで、その道で自己実現をしようとしている。」


「高校と小中学校、中央と地方という差もあろうが、ずい分と違うもんじゃ。まだまだ地方じゃ、有力者と癒着したり公私の区別があいまいであったり、宴会政治ならぬ宴会教育じゃ。ある面から言えば、家庭的でなごやかで情緒がありそうであるが、裏返せば封建的で不合理でぬるま湯だよ」


「元来、教師という職業は、君、孤独な仕事ではなかろうか。孤独に徹することによって、始めて真の独創が生れたり、仕事がより効率的に推進できたりして、専門書も読める・・・」


「しかし、それは、地方の教育界では無理じゃな。そういう芽は出てきそうな気がするがまだ先のこと、まだまだ本当のことを言ったら、それこそ『はかい』じゃね」


「無理に本当のことを言う必要もないじゃないか、はかいの後に素晴らしい建設的世界がくるならまだしも、集団の圧力で胃潰瘍でも起し再起不能になるぐらいがおちだからね。君は少し、固苦しく考え過ぎるのじゃないのか、学生時代からそうだった。もっと生活に思考に融通性を持たせることだな」


「僕もそう思う。その点については三ちゃんの生活態度を見ならわなきゃいけんと思っとる」


「おとなになれば、理屈を言っても始らん。言って解かる人は言わなくても解かるし、理屈を言えば相手は防禦して反抗してくるだけさ、その場その場にあった振りをすればいい。
宴会の場に行けば酔った振りをし、研究会に行けば学者のような振りをし、女に会えば惚れた振りをする。生活も人生も一種のまねごとだし、教育もまた模倣に過ぎんのでは」


 私も彼も、由布の山頂で飲むウイスキーに少し酔ったらしい。


「ものまねのうまい奴は頭がいい」


「その通りだ。しちむずかしい理論も、創造的感動的にまねができるための考えに過ぎない。人間は生れもって、理想に対するあこがれがある。だから、ほっといても直感的に真なるもの、善なるもの、美なるものを積極的にまねしようとする」


 教師になり立ての昭和二十五、六年頃は、彼は組合恬動のりーダーとしての振りをしていたが、三十代になると研究者らしい振りにかわり、管理者タイプになり、今こうやって会っている彼は、いろいろな振りを包含した奇妙なタイプの人間になっている。


 強いて言うなら、学者肌といおうか、宗教家、芸術家といおうか、かなり俗界の臭いのない人間になっていた。彼のように変化していく人間のことを成長しているとか、適応性のよい人間というのであろう。


 夏の夕日に由布の彼方に染まる雲が、異国の風景らしい振りをしてみせた。彼は詩人らしい顔つきで空間の一点に視線を集中していた。


 この次、会う時には、彼はどんな振りをしてみせるのか、何か今から楽しみである。


       

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