卒寿小論 515 戦後は続くよ・・・
先日、教え子の1年生議員の「市政報告会」に参加した。
会場が、私の母校の小学校で(今は廃校となり地域のふれあいセンター)、
60年振りに登校した。
小中高大まで、住んでいた家から、歩いて5・6分、走れば3分ほど、
遅刻することもなく欠席することもなく、6年間皆勤した。
60年振りにそのコースを歩いてみた。
ほとんど変わっていない街並みに懐かしさがよみがえった。
最初の家が、中学校国語教師の先輩Tさん、隣が中学校社会の教師のMさん、
その隣が私の中学校時代の校長Eさん、次の隣が中学校数学の後輩A君、
その隣が現役で東大に入って同級生のM君、その隣が後輩の小学校教師のH君、
この通路を過ぎて母校の裏門に到着。
いろんなことを思い出しながら歩いた。
H君を除いて皆さんは旅立ってしまった。
一人一人の思い出がたくさんある。詳しく書けば短編小説の一つも書けるぐらいである。
ここではE校長先生の娘さんのことが一番に思い出された。
少し小柄の可愛い娘さんは、背の高いリーゼントスタイルの宝田明に
よく似た男性と腕を組んで毎日のように我が家の前を歩いていた。
私が中学生のころで(昭和24年)まだその時代はアベックで
歩く若者もほとんど見かけない時であった。
とてもかっこよく映った。負けずに頑張るぞ。と思ったものである。
周りの明治生まれの親たちは「アプレ娘」と批判的であった。
参考 アプレは、アプレゲールの略、戦後というフランス語で戦後しばらく
「アプレ」の時代が続き、それが太陽族となり、リーゼントから慎太郎刈りに、
そして暴走族の時代へと続き現代にいたる。
アプレゲールを「アプレ娘」から連想してしばらくは「アプレガール」と呼んでいた。
もうあの美人のアプレさんもリーゼントさんも95歳は超えているだろう。
どうなっているのだろう。
そんな思いにふけりながら、昔の面影がなくなっている母校に到着。ただ銀杏の大木だけがまだ当時のままの姿であった。
昔の母校は、校舎の周りを小川が流れ、木造の講堂があり、
その突き当りに温泉の足洗い場があり、冬場は温泉を使用して掃除をしたものである。
温泉の浴室もあり時には入浴もした。
現在は、全てが消えてしまった。寂しい限りである。
笑顔のいい誠実な女性1年生議員の市政報告を聞いて一日が過ぎた。
「アプレゲール」から「アバンゲール(戦前)」に戻す運動が活発になっている。
戦後をどこまで続けるのか、どこで区切りをつけるのか。
戦後78年目にして思う。戦後はつづくよどこまでも。

戦後は続くよどこまでも。