syougoのブログ

余命ゼロ年の壁を超えてしまいました。転ばぬ先の杖を手にして、卒寿まではブログを頑張ってみたい。

「山のあなたの空遠く」に「幸い」を求めなくても
働いた後の休息が、至福の時であることを実感。
余命ゼロ年の暇つぶしに。我を忘れて夢中になれる
ブログに挑戦していこうと。

夢中になれることがあることに感謝。

卒寿099 心の断捨離結論 「これから」

藤 正悟

        


久しぶりに友と一献傾けた。お互いに元気で90代の大台に乗ったよな。感謝、感謝。


「おれなあ、心の断捨離を始めたよ」

「お前、心の断捨離しなければならんようなものはなかろう」

「近ごろな、ふっと不安になるのよ」

「それはお前だけじゃない。みんな不安を抱えている。俺から見るとお前、

断捨離しなければならないような心はないと思うよ」


卒寿の一杯は、専ら「断捨離」の話で盛り上がった。


そう言われてみれば、捨てるほどの物も持っていない。執着心もあまりない。

世間や信仰にも捕らわれない。自我も強くない。


それであるのに、なんで「心の断捨離」をしなければと思い始めたのであろうか。

ほんの少しの執着心、ほんの少しの自我までも捨てると、もっと素晴らしい世界があるのではと・・・。


親鸞が言うように「人間は最後まで煩悩を持った存在であり、

修行しても完全になれるわけではない。

執着や煩悩を無くすことではなく、

執着や煩悩を抱えたまま救われることである」


世間を離れて修行した親鸞が、世間を捨てる意味はない。と


出家する勇気も、家出する勇気もないごく平凡な私は、

「断捨離」するほどの物も心も持ち合わせてはいない。


執着や煩悩は、大なり小なり消えることはない。

世間(世俗)に身を置いて生活することしかない。


母が良く言っていた「人は人中、田は田中」とは、こういうことであったのか。

卒寿にしてその言わんとすることが理解できた。

人間は、世間に出てもまれて成長する。田んぼは周囲を田んぼに囲まれた真ん中が良い。


さてと、卒寿からの人生最後の自由研究として、

心の断捨離「人は何を手放せば、心が軽くなるのか」を課題として、暇つぶしをして行こう。


先達の生き方を参考にして、自由研究課題のまとめに入ろう。最後の卒論に挑戦。


        

卒寿098 心の断捨離 「なんまいだ」

藤 正悟

      


お寺さんの縁側に腰をおろし、天に消えていく湯けむりを眺め、一杯のお茶をすすり、

ご院家(いんげ)さんと話していると、体の中に溜まっていた不安やゴミが静かに洗い流され、

温かく流れる血を感じる。まさに至福の時である。


うちのご院家さんは、これまでの出会いの中での最高の人である。

「和顔愛語」の実践者である。


私だけがそう感じるのではない。ご院家さんの同級生やご院家さんを知る人で、

ご院家さんのことを「和顔愛語」の人であると全員一致の考えである。


浄土真宗は、戒律の考えがないので「和尚」は、存在しないことになる。

「和尚」とは、修行を積んでかなり地位の高い人。「先生・師匠」をいみする。

天台宗では、「和尚(がしょう)」真言宗では「和尚(わじょう)」日蓮宗では、

「上人(しょうにん)」と呼ぶそうである。


宗派の違いで呼び方も難しい。

分からない時は、「僧侶様」と呼ぶのが一番の無難だそうだ。

本人に「お坊さん」というのは失礼。「お坊さん」には、「君・あなた」と

呼ぶ距離感があるので使わない。

「ご住職」は、役職名であるので、住職でなかったり、副住職であったりと、

難しい点がる。


若い時に仏教のことを深く知ろうと多くの本を読んだ。

般若心経講義を始め、法華経、観音経、正法眼蔵随聞記、歎異抄、

などを中心に多くの本を読んだ。

たしかに、言葉として、理屈として仏教の考えを理解することは出来た。

いまだに理解に至らないことも多いが。


しかし、詠めば読むほど仏教の本質(実践)から、遠ざかって行くのを感じた。

確かに読書している時は、我を忘れて「夢中」になれる。

これはこれで「不安」を手放す一つの方法ではあった。


仏教の本質は、理屈ではない。理屈や理論(哲学)では、

仏教の本質にたどり着けないことを卒寿にして実感した。

行動(実践)あるのみ。


考えることから感じる生活への転換で、仏教の本質が私を救ってくれる。

朝の光を浴びて、1000歩く。声に出して読経する。雑談を楽しむ。

仲間とコーヒーを飲む。歌・スポーツ・・・我を忘れて夢中になれることに。


読経していて、気づいたことは、浄土真宗、親鸞の教え、「なんまいだ」―「なんまいだぶつ」―

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の一声で良いことを実感した。


南無(なむ)=古代インド語(サンスクリット語)で帰依する

(心から信じて、全身全霊で身を委ねる) 阿弥陀仏に帰依しお救いをお任せします。

阿弥陀仏=大乗仏教における西方浄土の教主であり、浄土宗や浄土真宗などのご本尊。


仏教に関する多くの本や資料を読み漁ったが、90歳になって、

「なんまいだ」の一言でいいんだと思いついた。


これからは、歩きながらでも、何かにつけての生活の場で「なんまいだ」を唱え、

私の全てを阿弥陀如来様、あなたにお任せします。

「おまかせ人生に徹することにしよう」 りくつはいらない。

                  2026年(令和8年)10月(卒寿)のおもい。

卒寿097  心の断捨離はじめ

藤 正悟

                             


窓を開けると金木犀の香が通り抜けていった。

10月は、妻の誕生日そして私の誕生日、次の日が結婚記念日と。

妻が米寿で旅立って、10月は私の誕生日だけになった。

それでも義妹(二人)に孫(二人) 甥(多数)や姪(3人)から、誕生日の電話やメールが届く。

素直に感謝。ありがとう。妻がいれば最高だよね。



「おはようございます。お誕生日おめでとう。素晴らしい、1年になりますように。

プレゼントが今日就くと思います。夜電話しますね」(娘より)


「ありがとう 早速着てみました ぴったりです。今日から卒寿を記念して、

心の断捨離を実践していきます。仏教の基本は心の断捨離ですね。

これから仏教の学び直しをやってみます。

今、そんな心境です。  今日は有難う」


心の断捨離で一番に思い出したのが、「Love is over」のうたである。

80歳の大台に乗った10月、木蓮の香を嗅ぎながら買い物の途中。

静かに、上品に「Love is over」のピアノ曲にのって、優しい歌声が耳に入った。


「ラブイズオーバー 悲しいけれど 終わりにしよう きりがないから」

今まで、気にも留めていなかった「この歌詞」が静かに深く心に入ってきた。


愛の終わりを自ら宣言するこの精神は、「心の断捨離」だ。

初めて心の断捨離に立ち止まった。

傘寿の誕生日にいい歌を聴いた。「終わりにしよう きりがないから」

このフレーズをつぶやきながら卒寿の誕生日を迎えた。


改めて、卒寿を記念して、「心の断捨離」をたずねてみることにしよう。

「物」の断捨離は、まあ上手く行っている。それでも「蔵書」を処分するときは、

少しばかり抵抗があった。


さて「心の断捨離」をとなると、これは大変である。

高齢になるほど、理由なしに「不安」が押し寄せてくる。

卒寿からの「心の断捨離」は、「不安」をどのようにして「手放して」行くかが一番の問題である。


釈迦牟尼は、「歩くことと対話すること」で、不安を手放していったようだ。

先ず、仏教の開祖、釈迦(本名:ゴータマ・シッダールタ、別名:ブッダ・仏陀・釈尊)

についてから、学び直すことにしよう。


次に、家の宗教(浄土真宗)の親鸞の「南無阿弥陀仏」だな。

釈迦と親鸞を学び直していくうちに、「心の断捨離」が、分かってくるかも。

もう少し生きていないと「学び直し」も出来なくて、終わるかも知れない。


(残念だけど 終わりにしよう きりがないから)と言うことか。それもまた良し。