
久しぶりに友と一献傾けた。お互いに元気で90代の大台に乗ったよな。感謝、感謝。
「おれなあ、心の断捨離を始めたよ」
「お前、心の断捨離しなければならんようなものはなかろう」
「近ごろな、ふっと不安になるのよ」
「それはお前だけじゃない。みんな不安を抱えている。俺から見るとお前、
断捨離しなければならないような心はないと思うよ」
卒寿の一杯は、専ら「断捨離」の話で盛り上がった。
そう言われてみれば、捨てるほどの物も持っていない。執着心もあまりない。
世間や信仰にも捕らわれない。自我も強くない。
それであるのに、なんで「心の断捨離」をしなければと思い始めたのであろうか。
ほんの少しの執着心、ほんの少しの自我までも捨てると、もっと素晴らしい世界があるのではと・・・。
親鸞が言うように「人間は最後まで煩悩を持った存在であり、
修行しても完全になれるわけではない。
執着や煩悩を無くすことではなく、
執着や煩悩を抱えたまま救われることである」
世間を離れて修行した親鸞が、世間を捨てる意味はない。と
出家する勇気も、家出する勇気もないごく平凡な私は、
「断捨離」するほどの物も心も持ち合わせてはいない。
執着や煩悩は、大なり小なり消えることはない。
世間(世俗)に身を置いて生活することしかない。
母が良く言っていた「人は人中、田は田中」とは、こういうことであったのか。
卒寿にしてその言わんとすることが理解できた。
人間は、世間に出てもまれて成長する。田んぼは周囲を田んぼに囲まれた真ん中が良い。
さてと、卒寿からの人生最後の自由研究として、
心の断捨離「人は何を手放せば、心が軽くなるのか」を課題として、暇つぶしをして行こう。
先達の生き方を参考にして、自由研究課題のまとめに入ろう。最後の卒論に挑戦。

