syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 252 ここはお國を何百里 <掌編31>

「ここはお國を何百里 / 離れてとほき滿洲の /  赤い夕日にてらされて / 友は野末のずゑの石の下した」


 聞き覚えのある久本先輩の声が、旅館の演芸場舞台の下手から流れてきた。二人が舞台に現れて、その様相をみて会場は爆笑に包まれた。


 久本先輩と更に一回り年上の軍隊経験のある田崎先輩の変装に笑いが止まらなかった。


 旅館にある鍋を鉄兜にタオルを包帯に手と足に巻き付けて、高帚を杖に今にも倒れそうになりながら歌をうたい舞台中央に進んできた。


 自然に会場全員による大合唱が始まった。


 思へばかなし昨日まで / まっさきかけて突進し /  敵を散々懲らしたる /  勇士はここに眠れるか  
 ああ戰ひの最中に /  隣にをったこの友の / 俄かにハタと倒れしを / 我はおもはず駈け寄って


 ここで 一回り上の田崎先輩がばったりと倒れたので、全員の大合唱がストップした。


 肩を貸していた久本先輩が田崎先輩を抱き起して


「先輩、傷は浅いぞ 大丈夫。」で、幕が下りた。


 全員の大拍手で久本先輩と田崎先輩が退場した。


「先輩。あの時、校長は眼鏡をはずして流れる涙を拭いていましたよ。」
「あれはね。校長の3つ下の弟が太平洋戦争で戦死しているのですよ。」
「そうだったのですか。知らなかったです。」


 昭和40年代は、田中角栄内閣の時代で日本列島は活気があった。特に教員の「人材確保法」が成立して、教員の給与が5年間に3回にわたって段階的に改善されて25%ほどの給与改善がなされた時代である。


 1年を締めくくる忘年会は盛会で2次回3次会と飲み歩いていた時代である。日本全国が少しだけ浮かれていたような時代であった。


「今日はありがとう。病院の中にいるとどうしても気分的に落ち込むのよ。施設も完備されて従業員も申し分ない対応をしてくれるんだが。何が問題かというと自然の風景が見えないこと。自然の風に触れないことかな。」
「先輩は、芝生のグランドをかけて学生時代をラクビーで過ごしたので特に自然の風が必要なのかも。」


「大木さんは、バスケット部で新築なった体育館の中だったなあ。芝生の匂いと体育館の匂いの違いが身に沁みついたのかも。」


「また出てきますので、走りぬいてください。」
「ありがとう。退院したら連絡するよ。うちで一杯やろう。」
「ありがとうございます。楽しみにしています。」


 学生時代の気分にかえって、先輩と「グータッチ」をして別れた。


 帰りはエレベータに乗らずに3階から、「ここはお国を何百里 / 離れてとほき滿洲の /  赤い夕日にてらされて / 友は野末のずゑの石の下した  ああ戰ひの最中に /  隣にをったこの友の / 俄かにハタと倒れしを / 我はおもはず駈け寄って (傷は浅いぞ 大丈夫) ・・・」と口ずさみながら降りた。


 先輩の元気な姿に接して気分が晴れた。


 その年の12月に久本先輩の奥さんから一通の葉書が届いた。


       喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます。
       夫 久本俊夫が9月15日に87歳にて永眠いたしました


         ポロリとこぼれる命の夜寒かな   正 悟


      

               先輩のご冥福をお祈りいたします。

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