卒寿小論 79 まちがい電話 <掌編21>
「もしもし、もしもし・・・」
妻はちょっと怪訝な顔をして夕食の席に戻ると残ったご飯の上に塩昆布と梅干を一個のせて濃茶をかけて流し込んだ。
夫の啓一は食事を終えて娘と将棋盤に向いあって駒を並べ始めた。
「あなた、女の人の声よ。」
「どうかしたのか。」
「切れたのよ。」
「まちがい電話だろう。」
娘は角道をあけた。啓一は金を角の横につけた。
こうやって、娘と夕食後に将棋を始めるようになってもう五年になる。高一の娘には今が一番屈託のない時期のようである。
第一回目のまちがい電話はそれで終わった。次の日も同じようなまちがい電話があった。
「あなた、女の人の声よ。」
「まちがい電話だろう。」
「あなたが出るのを待っているのじゃないの。」
啓一は将棋の駒を取り落とした。
「パパ、それだったら、次の一手でつむわよ。」
「そんな馬鹿な。」
「本当につむわよ。」
「いや、いや。」
自分に女から電話がかかる。そんなことは先ずない。佐野啓一四十歳、東京の大学を出て現在は地方の大学で講師をしている。
職について現在までの生活を振り返って、自分に女から電話のかかることは先ずない。自分の生活態度に自信があった。それでも、将棋の駒を取り落としたところを見ると、そういう一種の潜在的不安と自惚れが男の中にあるのかもしれない。
「かかってほしい。」「かかるかも知れない。」「かかったら大変だ。」
日曜日の夜中の二時過ぎに電話のベルで家族はびっくりしてとびおきた。
妻の母が七十歳を超す年配なので、いつどんな電話がかかってきてもお互いに取り乱すまいと常々心の準備をしていた。
啓一は一番にとびおきて電話に走った。妻も娘も緊張した面持ちで後に続いた。静かな暗闇の中を足音がすべる。啓一は受話器を取って一呼吸した。
「マリちゃんいる。」
酔客のとぼけた声が三人の耳に入った。
「マリちゃんいたら今から行くからね。」
ムードミュージックがバックに流れ、酔客は気持ちよさそうに電話に向かっている。啓一の声で相手はあわてて電話を切った。
啓一はなるほどと感心した。女に電話をかけるときは決して自分の名前を名乗ってはいけないということが分かった。電話に出た相手次第で即座に対応すること。
「おそらく、同番号の局番違いだろう。」と啓一はつぶやいた。
一度夜中に起こされるともうだめ、後はうつらうつらで明け方までぐっすりと寝付くことはできない。
木曜日頃からだんだんとまちがい電話がかかり始め、土曜日はピークとなる。そこで、電話ベル騒音防止として休む前に座布団で電話機をサンドイッチにしておくことにした。ベルの音に気が付かないくらいである。
数日後、「パパ、パパ、わかった。」と、娘が電話帳を片手に居間にやってきた。
「バーよ。」
「バーか。」
声の質からまちがい電話の九割が40代の男の声である。時に若い女の声が聞こえる時もある。たぶん仲間の一人であろう。
バーの開店から日がたつにつれてまちがい電話の回数が少なくなってきた。現在ではたまにしかまちがい電話はかからない。つい電話ベル防音装置の座布団を忘れるとそんな時に限って夜中に起こされる。まちがい電話とわかりながらひょっとして緊急な電話かも、としぶしぶ寝床から起きだして受話器を取る。
「もしもし、ユリちゃんいる。」
啓一はその声を聞いた瞬間目が覚めた。
「おや、どこかで聞いた声だ。太い男の声だ。ああ、あの方だ。」
啓一は太い男の声を全力を挙げて手繰り始めた。