卒寿小論 706 白 い 鳥 (掌編32)
緑の芝生におおいかぶさるように海面が西日を受けて反射し、奴は縁側の籐椅子に横たわって、
小説に読み疲れてうとうとと軽い眠りにはいっていた。
女中は夕飯のしたくに買物に出かけ、妻は外出からまだ帰っていない。小学校三年生になる一人娘が、純白の手のり文鳥に水を与えていた。
眠りの中を純白の文鳥が羽音をたてて、斜めに横切っていくのが、はっと神経にぶつかって、
そのつど奴はかすかに目を開けた。
かつては純粋に生きようと苦しみ、正義に生きようと悩んだ。恋に命もかけ、旗もふり、仕事にも喜びを感じた。夢があった。野心があった。権力、金、名声、立身出世、若さがあった。
ものごとに感動し、涙も流し、腹もたて、大声で笑った。
あれから二十有余年、いまや四十代を終わり、五十代への仲間入りをしようとしている。
世間一般では、最も油ののりきった働き盛りというが。奴は無気力に籐椅子にねそべって、
本を読んでいるのか、庭を眺めているのか、考えこんでいるのか、眠っているのか、ほんやりとしている日が多かった。
とろりとした瞬間に、言葉がファンタジーの如く脳裡をかすめる。
「・・・女・・・どいつも同じさ・・・つまらん・・・酒、タバコ・・・身体が受けつけん・・・金もうけ・・・意味がない・・・仕事・・・笑わせるな・・・」
奴はかなりの金を貯めこんでいた。脱税も人並み以上に上手になり、ちょっとした町の顔役にもなった。他人の人事に一声かけるだけで、百万近くの金が面白い程ころがりこんできた。
裏預金も、億を突破して何もしなくとも一生食っていける身分であった。
「・・・金のない奴ほど、金を使って立身出世しようとする。金のある奴は、
よりいっそう金を貯めこもうとする・・・ナンセンス」
遠くで乱れた足音がひびく、やがて、遊びとぼけた顔をした妻が帰宅した。
仕事は支配人にまかせているし、食事の用意は女中がやってくれる。
子どもの勉強は家庭教師に、奴も妻も、食うか、ねるか、遊ぶか、以外に何もすることがなかった。
このような長い生活の中で、感動する精神は消滅し、自然と消化器と生殖器の発達だけがめだつ、
官能的人間になってしまったようである。
妻の声で、とろりとした眠気から覚めた奴の目に、純白の手のり文鳥が、
娘の小さな人指し指の先にのって首をかしげていた。
瞬間、奴の無気力な大脳の中を一筋、赤い血潮が流れ、全身がカッとほてった。
今まで思い出しもしなかった、四十数年前の小学生時代の出来ごとが、
娘の姿と交錯して実にあざやかに映ってきた。
陶酔の中で、奴はじっとまぶたをとじた。インクをすっぽり被って真っ赤に染まった白い鳥が、
ばたばたと鳥かごの中を無秩序に飛びかいぶつかっては落ち、疲れては止まり、ひまさえあれば口ばしで、赤く染まった羽毛をなめまわしていた。
狂気の乱舞というのがまさにあれであろうか、夜が来て、疲れた小鳥は、くずれるように這い蹲り一夜をあかし、次の日も力の限り、とび、さえずり、なめまわし、三日目の夜、息絶えて死んでしまった。
白い鳥が赤い鳥になるということがどういうことであるのか。死にまで追いやったその原因は何か。
当時の奴は、ただ、赤く染まった白い鳥がえさもついばまずに、赤い羽毛をなめて落そうとした行為と、それだけのことで死んでしまった不思議な鳥の生態が印象深く頭に残った。
現在の奴は、あの白い鳥の自殺的行為の意味が理解できるような気持ちになるのである。
種々様々の色が体にしみこんでしまった。その色を奴は落そうともしなかった。
むしろその色をつけた自分を得意がり、誇示して生きて来た。
色が悩みの種にもなれば生き甲斐にもなった。
しかし、奴にはもうつける色がなくなった。奴の肉体の奥深くしみこんだ様々な色。
もう落ちる筈がない。そして、今さら落す必要もない。
