syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 11 冷蔵庫貧しき日あり <川柳>

    冷蔵庫貧しき日あり富む日あり   椙本紋太


 昭和の時代の公務員は貧しかった。
 もっとも敗戦の昭和20年代は日本全体が貧しかった。
 昭和30年頃から景気がよくなり始めたが、あまり関係なく地方公務員は貧しかった。


 まず、冷蔵庫が家になかった時代である。昭和40年頃から全国的に冷蔵庫が普及し始めて我が家にも冷蔵庫と洗濯機が揃い一足先の電気釜と合わせて三種の神器といわれた電気製品が整った。


 それでも車社会は程遠く、二輪車、ホンダのカブが街中に溢れていた。
 私もホンだの単車にのって通勤していた。
 そんな時代、冷蔵庫を見ると家の経済状態が一目でわかった。冷蔵庫は財布そのものであった。


   冷蔵庫貧しき日あり富む日あり  その通りです。泣けてくるなあ。


 参 考
 椙元紋太(すぎもともんた)(1890~1970)享年 79歳 紋太の死によって、川柳六大家の全てがなくなり、川柳における一つの時代が終わりを告げた。


 『神戸市花隈に生まれ、18歳ごろから新聞に投句を初めて川柳生活をスタートさせる。藤村青明に兄事して、昭和4年にふあうすと川柳社が創立された際に代表、編集発行人となりる。「川柳は人間である」を標榜して、人と違った個性ある作品を、個々の人間と一体化主導的創作には雑詠が相応しいなど、当時としては一歩前を進んでいた。』


    水撒けば浴衣の人がもう通り
    清流の渦やすみなく小鳥啼く


    知ってるかあははと手品やめにする
    弱い児に弱いと言わぬことにする
  
    限りなくあなたお前の日よ続け
    皆咲けば 百花繚乱 妻の庭



    よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み   神戸市生田神社境内 句碑


       

       植えた記憶のない花が咲く庭  鹿の子百合

卒寿小論 10 俺に似よ <川柳>

    俺に似よ俺に似るなと子を思い  麻生路郎


 親として気になるところだ。俺のような生き方をすることはない。と、思いながらも俺のように生きろと思うこともある。 
 切ない。子を思う親の気持ちは万国共通である。子どもの健康を願い多くの友人たちに恵まれて平穏無事な一生を送って欲しいと願っている。


 この歳になって親の思いを深く考えることができるようになった。これも孫ができひ孫が出来ての暮らしの中で気づいたことである。


参 考
 麻生路郎(あそうじろう)(1888~1965)川柳六大家の一人。本名・幸二郎。肝臓障害で没。享年77。
『広島県尾道市に生まれ。大阪高商卒業後職業を転々としながらも、16歳頃から田能村朴念仁選に投句を始め川柳をスタート。大正13年『川柳雑誌』を創刊。昭和11年には「川柳職業人」を宣言する。「いのちある句を創れ」「1句を残せ」を標榜した。』



  大杉(大杉栄)を殺し思想を取り逃がし
  あの博士今度は民主主義を売り


  だしぬけに鐘の鳴るのも旅のこと
  鼻の偉大さ山脈を思わされ


          飲んで欲しやめても欲しい酒を注ぎ   
           酒豪、麻生路郎の妻(葭乃)の句


          

            優しく切ない酒だよ人生の

卒寿小論 9 鮎にひき <川柳>

    鮎二ひき暫く焼かず皿の上   前田雀郎


 妻の妹が日本画をやっていて、毎年の展示会に作品を出品していた。
毎年作品展の鑑賞に参加するのが年中行事になっていた。
 私は用事を思い出して展示会場を出て、廊下から電話を掛けた。用事を済ませて展示場に戻ろうとしたら、歳の頃なら56・7という背広姿の紳士が妻に話しかけていた。


 私はまだ見ていない作品の方に回って日本画の鑑賞をした。みなさん素人なのに見ごたえのある作品ばかりでいつものことながら感心してしまう。


 話し終えたのか、背広姿の紳士が妻のところから離れていった。
 妻は満足そうな笑顔で私を迎えた。
「貴女も作品を出しているのですか。」
「いいえ、妹が出品しているので観に来ましたの。」
「貴女が立っているだけで絵になります。」と。


 60代に入っているのに10歳は若く見られる上に「立っているだけで絵になる。」とは、素晴らしい表現である。妻の笑顔に納得。

          

        

             梔子(くちなし)
             季節の花300より
         花言葉は「洗練、優雅」「喜びを運ぶ」


    鮎二ひき暫く焼かず皿の上  
    容姿端正な二匹の鮎。焼くに焼かれず眺めいる。いい姿、いい色。


  参 考
 前田雀郎(1897~1960)、戦後川柳六大家の一人。
 『栃木県宇都宮市に生まれ、宇都宮商業卒業後上京して阪井久良岐の門を叩く。都新聞社に入社。『都新聞』に川柳欄を新設。その後川柳誌『みやこ』を創刊する。俳諧味のある作品が多く、川柳の研究にも熱心で、多くの学術書を残した。門下から研究者が多く輩出しています。』


    おそろいをきせても家の子が目立ち  
    子や孫に対する爺ちゃん祖母ちゃんの気持ち。わかるなあ


    学校は面白いかと子に酌がせ
    秋風を覗いて帰る曲り角
    菜の花に内田百閒昼寝する


    萩咲けば思い出される咳一つ
    昭和30年の作品。剣花坊忌の献句。井上剣花坊は山口県萩の士族。