syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 41  続 望 遠 鏡   <掌編 9>

    

              大分合同新聞掲載の挿絵より



  佐野啓一、四十歳。東京のN大学教育学部心理学科を卒業して、現在は地方大学の講師。連続する雨の休日にいささかうんざりし、望遠鏡のレンズを磨きながら、フラストレーションの蓄積にイライラしていた。


 ゆうべの天気予報では、きょうは午後から曇り、ところによっては晴れ間が出るとか。啓一はそれに期待をかけて、望遠鏡を磨いていた。


 週三回の講義と、本を読むか、ものを書いているかの生活が十二、三年も続くと、生活の知恵として、自分に最も適した遊びというものを創造する。
 望遠鏡を磨くという極めて単純な作業が精神的な疲労を緩和し、生活の調子を整える安全弁となる。


 近ごろの天気予報は実によく当たる。きょうも見事に的中し、正午を過ぎるのを待つかのように、雲に切れ目ができ、その部分だけがひときわ明るく街並みの景色を映し始めた。


 佐野啓一は、さっそく望遠鏡を肩に、屋上のベランダにでた。まだ、つゆの雨雲におおわれて、望遠するのにはあまりよい条件ではなかった。画面は全体が暗く、小さな物体はぼやけて詳細には観察できない。それでも、雲の切れ問にさす明るい場所だけは、周囲が暗いせいかよけいにきわだって見えた。


 サーチライトのように、点々と散在する明るい部分を追って、望遠鏡の焦点を移動させた。梅雨のじめじめした空気の中には人影は数えるほどしか発見できなかった。建物が死人館のように黒いバックの中に沈んで、これまでに望遠鏡で眺めたことのない憂うつな風景が啓一の望遠鏡に投影された。


 しかし、一方、明るい部分では、松の刈り込みが引き締まり、モミジ、サルスベリ、キョウチクトウなどの木々の緑が雨にぬれ、玄関わきには純白のアジサイが清楚に咲き乱れている。アパート住まいの啓一には、目のくらむような住まいが目に入った。


 同じように、庭園の広い緑におおわれた一軒立ちの住宅が雲の切れ間の太陽に水滴をきらきらと輝かせて、死人の館とは対照的に明暗をはっきりさせていた。


 望遠鏡が二度目に純白のアジサイをとらえた時に、啓一はおやと思って、ピントを合わせ直した。


 白地に黒と茶の子ネコが、親を捜しているのか、四つの足で不安定に立ち、頭だけをゆったりと左右に動かしながら、一定のリズムで目を大きくあけてないていた。一歩も動かず前からの姿勢で、今にも倒れそうな姿態が自活能力のないことを物語っていた。


 親ネコが子ネコの泣き叫ぶ声を聞きつければ、とんで来て保護をするのであるが、かなり遠方から捨てに来たのであろう。五分十分となき続けていた。


 と、アジサイの向う側の表戸があいて、一人の老紳士が着物姿で現われた。
 髪は白髪であったが背筋がピントはって、見るからに立派なこの家の主人である。きょろきょろと何やら捜し物をしているようすから捨てネコの声を聞きつけて表へ出て来たようである。


 純白のアジサイのかげに、捨てネコを発見してその方に近づいた。その時の顔の表情は残念ながら啓一には観察できなかった。うつむきかげんであったのと、太陽の光が一瞬暗くなったので。


 白髪の紳士は、捨てネコの首ったまをぎゅっとつかむと門から道路に出た。そして、右手の、啓一からは向かって左手になる隣家の鉄さくの門の中に子ネコを投げ込んだ。子ネコはギャッとないて、あごから地面に墜落し、頭から二、三回転して止まった。


 それでも、またもとの姿勢に不安定に立つと、親を求めてなきはじめた。望遠鏡の中にゆっくりと左右に動かす頭と顔いっぱいに広げる口の動きだけが生きていた。


 やがて、鉄さくの向う側の玄関が開いて買い物かごを提げた主婦が姿を見せた。慣れた手つきで、ネコの首ったまをひょいとつまむと、門を出て純白のアジサイの根っこに子ネコを置いた。
 このあたりでは、捨てネコや捨て犬が多く、住人たちはその処置に慣れているのであろうか。彼らの行動にはなんらちゅうちょするところなく捨てネコに対処していた。


 しかし、だれの行為も、問題の解決にはほど遠い。捨てネコはやっかいな重荷を背負って、門口から門口へと投げ渡されていく。


 望遠鏡をのぞいていた啓一は自問した。この捨てネコ問題の具体的な解決とはいったい何か。自分の目の届かない、鳴き声の聞こえない場所にネコを移動させることであるのか。ネコの好きなようにさせて平和共存路線でいくのか。それともむだな生き物として抹殺してしまうことなのか。


 ネコがはじめて、一歩動いたので、啓一の考えは中断した。ネコはアジサイの根っこを離れ、門から道路へと歩を進めた。


 男の子が一人駆け寄って、ネコを抱きあげた。


 しかし、男の子は急に今来た方向を振り向いた。男の子の後方に母親が神経質な目をつり上げて、ヒステリックに叫んでいる声がレンズを通して聞こえた。


 男の子は抱いていた子ネコを放り出して、駆け出して行った。瞬間、啓一はネコを見失った。道路から門、アジサイの根っこ、鉄さくの中、しかし、子ネコの姿はどこにも発見することができなかった。


 ただ、門前を流れる泥水の中で、何かが動いたようであった。

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