卒寿小論 672 懐かしい思い出「かみつき猿」
昭和23年、終戦後の3年目だったかな。東京のほうから転校生が入ってきた。
私が、小学校6年生のときだ。
市立温泉小学校はのんびりと豊かにその日暮をうけいれていた。
終戦後の3年目ということで社会は混乱していたが、町はなぜか何事もなかったように
進行していた。
そう思うのは私と一部の子どもたちだけだったのかも分からない。
東京からの転校生は、色白でちょっとばかり小柄ではあったがきりりと引き締まった
顔立ちと立ち居振る舞いは「聡明」という言葉がピッタリの雰囲気をかもし出していた。
見た目の通り頭脳も明晰で初対面から誰もが秀才と認めた。
温泉小学校は、年中温泉を利用できた。寒くなると掃除のときの雑巾がけはもとより、
体育の後の足洗いや手洗いはかけ流しの温泉を自由に使えた。
担任の宿直のときは数人の友だちと宿直室を訪問した。
4,5人は入れる湯船なので、全員一斉に一度にお風呂に入ることができた。
担任と裸のコミュニケーションができたことは今思えば凄いことだと思う。
「聡明」な転入生は、宮崎公一といい、その優しさと頭の良さで「博士」というあだ名がつき学級のみんなに受け入れられた。
福岡政治といい、父は市会議員で、母はPTAの役員をしていた。
政治は、根っからの人のいい親分肌の面倒見のよい、見るからに喧嘩も強いだろうと
連想させる少年であった。
小学校生活最後の夏休みに入る前日、一学期の終業式が終わってそれぞれに下校をし始めた。教室の中には、私と転入生の宮崎公一と福岡政治とあと男子2,3人を含めて7,8人ぐらいが残っていた
突然、机の倒れる音と政治の悲鳴が聞こえた。
見ると公一と政治が取っ組み合いの喧嘩をしている。
どうみても勝ち目のない公一が、政治の懐深くもぐりこんで、その上から、
政治が大きな体で公一を押さえ込んでいた。
誰が考えても、政治が有利であるはずなのに悲鳴を上げているのは政治である。
どうしたことだ。
太もものあたりに噛み付いていた。ここはいたいところである。
なんとか二人を引き離し、その日はみんな下校をした。
その事件はその日のうちに学級の全員に知れて、学級の政治と仲のよいグループでは、
これを機会に宮崎公一に「かみつき猿」というあだ名をつけた。
小学校生活残りわずかではあったが、公一は「博士」と「かみつき猿」の二つの
あだ名で暮らすことになった。「博士」と呼ぶのはほとんど女子で、
男子のほとんどは「かみつき猿」と呼んでいた。
夏休み明けの2学期からが大変だぞと予想していた学級全員であったが、
予想に反して、公一と政治の人間関係はよかった。
夏休みの初日、朝早く公一と公一の両親が私のうちにやってきた。
聡明な博士の親にふさわしく物語りに出てくるような雰囲気を持っていた。
「昨日は、大変なところを仲裁に入っていただき有難うございました。
つきましては、先方に謝りに行きたいのですが、あなたも一緒に来てくれませんか」
ということであった。
一番の仲よしを立会人にして政治の好きな菓子を持って、
私が道案内をして政治の家に出かけた。
政治の両親は恐縮して、快く公一と公一の両親を受け入れてくれた。
そんな経緯が夏休み中にあったことは学級の誰もが知らなかった。
政治と公一は、夏休み明けから急速に接近し仲良しになった。
仲良し集団となっていった。
その後、宮崎公一 博士、またの名をかみつき猿は、東大に進学し官僚の道を選んだ。
活躍した。 もうみんな旅立ってしまった。懐かしく思い出される。
