syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 1 浜までは海女も蓑着る <俳句 1>

 1972年(昭和47年)35歳の夏 その日はどんよりと曇った一日であった。


 昭和の時代の教員は、夏季休業中は自宅研修という名目で自分の意志で自由に過ごすことができた。よき時代であった。


 県下で初めて、学校現場での「ことばの教室」を開設して言語障害を持つ子どもの訓練に取り組んでいた。障害を持つ子どもの教育については、教員の仲間でも敬遠する傾向が多く、理解が乏しく、障害を持つ子どもの教育を避けていく傾向が強かった。
 まして、言語障害を持つ子どもの教育に対する教員仲間の理解者は皆無に等しかった。研究や研修にあたっても自力でごく限られた指導者や研修の場を探して学習を深めていった。


 35歳の夏。体調を崩し九州大学付属の別府病院にかかった。検診の結果、胃にポリープがあり、念のために細胞検査をすることになった。


 細胞検査の結果が分る前日は、いろんな思いが巡り巡って今までに体験したことのない不安な一日となった。
 家にじっとして居ると不安が体中に溢れてどうしようもなくなるので、午後は行きつけの書店に出かけて行った。


 漫然と書店内をいつものように歩いた。


 本を買う気もなかったので、さあ帰ろうと書店の出入り口の方に向かった時。右手の書棚の丁度目の高さの位置にある一冊の本に目が留まった。
 その本を手にしてパラパラとめくったページに次の俳句が


 浜までは海女も蓑きる時雨かな   瓢水(ひょうすい)


 高神覚正師の般若心経講義のなかの1ページである。


 戦後すぐにNHKラジオ放送の般若心経講座を角川文庫より一冊にまとめて出版した本である。
 とても読みやすく、俳句あり、川柳あり、短歌あり、詩ありと幅広い文芸を語りながら般若心経の真髄に迫るものである。


 「浜までは・・・」の一句の解説。(引用)
『やがては濡れる海女さえも、浜までは時雨を厭うて蓑を切る、この海女の優にやさしい風情こそ、教えられるべき多くのものがあります。それはちょうど、ほんとうに人生をあきらめ悟った人たちが、うき世の中を見捨てずに、ながい目でもって、人生を熱愛してゆくその心持にも似ているのである』


  浜までは海女も蓑きる時雨かな   


 この一句にどれだけの元気をもらったことか、なにかが起こるたびにこの句を思い出して最後の最後まで自分らしい生き方をしていこうと決意したものである。


 あれから50年。85歳を過ぎた。一寸先は闇。いつ人生を卒業しても不思議はない。


これからは、「人生の卒業論文」としての覚悟で文章をまとめていくことにしよう。一応の目安を「卒寿」命を卒業する年90歳に設定しておく。これまでに書き溜めた文章の推敲を「一作一生」の思いで書き続ける。


高神覚正師の「般若心経講義」を何度手にして、読み直し書き抜いて生きるネルギー貰ったことか。
         人生卒論の第1ページをこの一句から始めよう。


            

          浜茄子 季節の花300より
          花言葉は、「悲しくそして美しく」。
          初夏から晩夏にかけて次々に花を咲かせるが、
          ひとつひとつの花の命は短い一日花と言われている。
参 考 
高神覚正=1894年~1958年、大正昭和時代の僧で仏教学者。真言宗。母校の智山勧学院の教授。後に大正大学と合併。昭和19年同大学の教授。
昭和9年NHKラジオ講座で般若心経を講義。愛知県出身昭和23年2月26日55歳で亡くなる。


瓢水=播州の俳人で家は分限者で親ののこした財を食いつぶしながら俳句三昧に生きた。


 蔵売って日当たりのよい牡丹かな  瓢 水

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