卒寿小論 3 夏河を超すうれしさよ <俳句 3>
学生時代友人と4人で別府市街地から夏山の登山をした。別府市街地から由布山まではかなりの距離であったが少しもきついとは思わず一気に由布山頂まで歩いた。
由布山頂についてウイスキーの水割りで乾杯をした。
4人とも学校を出るとすぐに大分県内の学校に就職した。
これほどの距離を一気に歩いたのは後にも先にも由布登山の一度だけであった。なんせ学校現場は忙しくて登山をする暇なぞなかったように記憶している。
まだ車社会でなかったので町中や自然の中を歩くことが生活であった。
夏河を超すうれしさよ手に草履 蕪 村
昭和の40年代までは、市街地の風景のいたるところにこのような川が流れており、この句と同じ体験ができた。
河が消えて、蛍がいなくなり、夏の夜空を眺めることも無くなった。
この一句は現代人にとって、一服の清涼剤である。
つくられた環境の中に閉じ込められて、情緒障害を起こしそうになる時、自然の人に与える影響のすばらしさを思う。
いくら歳を取り過ぎても、この一句の喜びと気概を持って生きていきたいものである。
からすのえんどう
季節の花300より
少年の日の思い出の花
参 考
『江戸俳諧御三家、旅の芭蕉、生活の匂う一茶、絵画と俳諧の二刀流の蕪村とそれぞれに個性豊かな生きる力と命のすがたを見せてくれた。
『蕪村は寛保2年(1742年)27歳の時、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を周遊した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。
42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗る。45歳頃に結婚して一人娘くのを儲けた。51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴く。以後、京都で生涯を過ごした。
天明3年12月25日(1784年1月17日)未明、68歳の生涯を閉じた。心筋梗塞。』
辞世の句 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり 蕪 村