syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 47 もうかえるの <掌編12>

     

             梅 季節の花300より
             花言葉は「高潔」「忠実」


「おかあさん、もう帰るの」
恵美は残念そうにつぶやくのがくせになってしまった。


「そうそうお前のおつき合いもできないよ。早いもんだね。お前が結婚してもう二ヶ月が経ったよ、頑張らなきゃあ」


 満更でもない微笑を浮べて、母は恵美を元気づける。外国航路の舟乗りに嫁にやった責任感のような気持ちから母はたびたび娘の家を訪問した。


「オカアサン、モウカエルノ」
「ああ、帰るよ」と、いいかけて、母は笑った。


 毎度のことながら、母が玄関まで出てくると、玄関の下駄箱の上に置かれている九官鳥の長助か声をかける。母は恵美とまちがえて必ず返事をする。返事をしたあとで、なんだという顔つきで笑うのである。


 恵美も笑いながら玄関まで送りに出て、「なんでもよくまねするのよ」と、えさを与えた。


 新婚二か月で、夫の真治は船に乗り込み外国まわりが始まった。しかし、この海上生活もあと三か月のしんぽうだ。それから後は陸上勤務をすることが決まっていた。月給は半分に減るが、そんなことは、恵美にとっても真治にとつても問題ではなかった。


 真治が船に乗り込む前に、恵美の生活を思やり、買って来たのが、この九官鳥の長肋である。近頃では、恵美との生活に慣れてしまい夜明け方から夕方まで、しゃべりつづける。


 それは、ことばを憶え始めた二、三才児が、手のつけられない程しゃべるのに似ていた。
ある時は甘え声で、そして、ある時は、たかぶった声色で、長肋は憶えたことばを関係なく羅列する。その声色は恵美の感情を実によくとらえていた。


 「ゴメンクダサイ、オハヨウ、モウカエルノ、オカアサン、ハハハ、オハヨウ、オカアサン」
 小さな声で、大きな声で、甘えるように、ささやくように、うったえるように、さえずりつづける。


 母を送り出して、長肋にえさをやり、玄関に腰を降ろすと、恵美は溜息をつく、若さと健康と暇と金があり仕事のないことが、不満の種として心に積る。「さあ、頑張らなきゃあ」と、庭に出て力いっぱい背伸びをする。


 そんなある日、クラスメートの美子が、恵美の家を訪れた。
 「美子、ちっとも変わってないな」
 「おめでとう、恵美、おばさんに聞いたよ。見合いだって、まさかと思ったわ。後悔して
  るのとちがう」
 「とんでもない。しあわせよ。でも、いささか退屈ね」
 「ほん音はいたな、そりゃそうよ。金はあるし、瑕もある。健康でありあまるエネルギ
  ー、愛する夫は海の上、あぶないなあ」
 「何がさあ。美子とちがいますからね」


 久しぶりに会った同級の女同志、たまりにたまった日頃のうっぷんをんを一気に晴らすかの如く、話題は尽きず、前後の関連もなく思いつくままに乱れ飛ぶ。


 「美子、新聞記者って、なかなかなんでしょう。いつまで続ける気」
 「実はね、私も近々、結婚することにしたのよ、それで新聞社やめようと思うのよ」
 「またかつぐ、悪いくせなおらないのね」
 「本当、本当、うそじゃない。今度の仕事が最後になるかも、ほら、御当地出身の、英文
  学者の朝岡先生のインタビユーなのよ」
 「結婚の相手はやはり新聞記者なの」
 「そう、共同通信社の外電担当でね、新聞記者といっても、机にかじりついて翻訳して、
  整理するのが仕事。私も、その方をお手伝いしながら、将来は本格的に翻訳の仕事やっ
  てみようと決心したの」
 「うらやましいなあ、やってみたい」
 「あしたの、朝岡先生のインタビューいっしょにいかない。何かの参考になるかも」
 「いいか知ら、ついてって」
 「まかしときなさい。かなりずうずうしくなったんだから、あっ、それに、言おう言おう
  と思って忘れてたけど、恵美にお熱上げてた同級の野口文夫君、彼、放送記者でがんば
  ってるわよ」


 恵美は瞬間、血のふるえるのを感じたが、美子には気取られずにすんだようである。


 次の日、恵美は美子といっしょに、朝岡先生を訪問した。美子は三日間、この地に滞在し、仕事を済ませると本社へ帰った。
 帰りしなに、野口文夫の名刺を恵美に手渡し、実験者がある種の好奇心で目を輝かせるように笑った。


 少し退屈ではあるが、平穏でつつましやかな恵美の心の中をかき乱して美子が帰ったあと、恵美は、暇と金と若さで憂うつになるのであった。


 日は無為に過ぎて行く、時折、思い出しては、文夫の名刺を取り出し、受話器を取るのであるが、途中でやめてしまう。
 しかし、ある日、遂に決行した。呼び出しのベルがルールールールー と、いやに耳に残った。


 夜の明けるのが早くなり、あちこちで梅の便りが聞かれ始めた。次の日曜日にでも、父母をさそって梅見にでも行こう、恵美はこよみをくった。


 玄関に出て、力いっぱい青空に向って、背伸びをした。これが、恵美にとっての唯一の若さの表現である。


 郵便受けに手を入れると、真治からの絵ハガキが届いていた。新しい港に入るたび、その土地の絵ハガキか写真を同封して定期便のように配送されている。


 「サデイナ港に碇泊、仕事が終わり、今日は給水のため特別休暇、同僚とサデイナの町に上陸、船上生活最後の記念品と恵美への土産を買う。サデイナの並木路を恵美と一緒に歩きたい、あと二か月 真治」


 読み終わって恵美は幸福感に浸った。


「モウカエルノ、フミオサン」
 恵美は夫真治からの絵ハガキを取り落した。


 九官鳥の長助に恵美は心の一端を覗かれたように思えた

×

非ログインユーザーとして返信する