syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 64 異常乾燥注意報  <掌編17>

                

                   コスモス 季節の花300より
                 花言葉 「乙女の真心」「調和」「謙虚」



 昨年の秋だった。油ぎった夏からからりとした秋風が吹く頃に毎年開催されるアジア心理学研究会に参加した。


 九州在住の心理学に興味と関心のある成人が集まって、日常のケース研究を報告しあう極く平凡な会である。
 別に、会則らしい会則もなく、要するに同好の士が必要経費を手出しで、一所に集まって日頃のたまりにたまった要求不満をぶちまけるだけの会である。


 まあ、誰もがよくやる同窓会の変形したもので、チョッピリ話題や内容が心理学的用語によって語られる一泊二日の自主研修会である。


 名称などあってもなくてもよかったのだが、誰かが、勝手にアジア心理学研究会と命名した。別に変える必要もなかったのでそのままにしている。知らない人は大変な会だとびっくりする。それがまた愉快であった。


 佐野啓一、四十歳、N大学教育学部心理学科を卒業して、現在は地方大学の講師をしている。啓一は、ほかの会はともかくこの会だけには必ず出席することにしていた。


 この会は一年に一回の夕立のようなもので参加した後、非常な爽快さを感じる。最も民主的でなければならないはずの教育界の中で、啓一の心身は、その人問関係のわずらわしさに、からからにひからびてしまう。


 熊本で開催される心理研究会に前日から、啓一はそわそわしていた。こういう啓一を見て、妻は「男性はいつまで経っても、幼見性が残るものか知ら」と、つぶやく。


 しかし、会の名称のおかげで豪も疑われることもなかったし、かえってスケールの大きな会に出席できる亭主に誇りさえ感じてこまごまと旅の仕度に余念がなかった。


 駅まで歩いて二十分、タクシーで四分、自転車で七分、バスで十五分かかる。


 午前八時、別府駅始発の第二火の山号に乗車するのに、佐野啓一は少し早く起て過ぎたようである。七時までに朝食も済んだので、啓一は駅まで歩くことにした。
 初秋の朝風に体をのせて、ゆっくりと歩きながら見る別府の景色もまた格別である。皮膚を通す風の刺激で秋特有の下腹がじんと疼き、心臓が押し上げられるような情緒に浸る。


 ディゼルカーの窓をあけると、海からの風が吹き抜けた。以前は電車に乗る時に、進行方向に向かって座席を取っていたが、いつともなしに、進行方向を背にして座わるようになった。
 目まぐるしく移りゆく景色よりも、長く視覚に残るゆったりとした風景の方を好みだした。


 定刻に火の山号は発車した。終点熊本には十一時三十九分着で、三時間以上を電車の中で過ごすために、言語心理学の軽い専門書を開いた。


 荒城の月の曲が、プラットホームのスピーカーから車内に聞こえてきたので、啓一は、本を閉じて、窓外の景色を見た。


 啓一は今まで気づかなかったのであるが、前の座席に五才ぐらいの女の子を連れた美しい女が窓の外に目をやっていた。


 電車は竹田を離れた。


 女の子も、母と同じように外の景色を見ていた。物静かな冷めたい女の顔が、ギリシャの彫刻のように深く蔭をたたえ、車窓より吹き込む初秋の風に後れ毛が白い耳のまわりで踊っていた。


 啓一は、また、本を聞いた。


 しばらく経って、あまり静かなので、啓一は、前の親子がまだいるのかと顔をあげた。二人とも以前と同じような姿勢で座わっていた。


 車窓に青い冷めたい山水の流れが、きらめいたが、車内には別に変化は起こらなかった。母が何か呼びかけたようであるが、啓一には、はっきりと何と言ったのか聞こえなかった。娘も聞こえたのか聞こえなかったのか知らぬふりをしていた。


「おや、この子は自閉症では」


 専門柄、もつと早く気付かねばならぬはずであるのに、親子の気品のある端正な容姿にそんなことは思いのほかであった。
 子どもの無関心な表情、機械的な動作、意味も感情もないつぶやき、何かに対して頑強に抵抗している子どもの姿、何がこの親子を遮断しているのであろうか。これ以上の断絶があろうか。


 啓一は、また、本に目を落した。


 宮地を過ぎて、ふと前の座席を見ると、さっきの親子連れはもうそこにはいなかった。


 秋咲のコスモスのつぼみが集団で飛んでいく。稲がやっと黄色味をおびて、柿の青い実がくりくりと午前十時の太陽に輝き、小川がゆったりと流れ、電車は、山峡を縫って山の中に突込んでいく。


 なんだかこういう景色を眺めていると、自分は昔、こんな緑の中で生れ育つだのではないかとふと思う。


 娘が高校生になって、啓一との距離ができてしまった。それもまたいい。娘もやがて、母親としてこの風景を見た時に、きっと自分が感じたような親子の間柄を体験的に感得するであろう。


 電車は突然山峡を突き披けて、阿蘇の太平原の中に躍り出た。子どもというものは、ガン細胞のようなもので、親細胞を食いつぶして、成長していくのかも知れぬ。


 阿蘇の大平原の雰囲気の中に先ほどの親子のことも忘れてしまった。秋も深まっていくとこの阿蘇の大平原は、やがて異常乾燥地域になる。


 乾わき切った空気が、啓一の咽頭にひりりと突きささった。


        

            すすき 季節の花300より

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