卒寿小論 366 大友家、そして女たち (宗麟1)
豊後大友家を語るときに避けて通れないのが、大友家は男女を問わず美男美女の集団であったということ。
特に顕著なのが、豊後大友を開いた始祖、大友能直(よしなお)は、幼少期は病弱で、眉目秀麗で、どちらかといえばむしろ女性的人物であったと。
「吾妻鑑」には、能直(よしなお)は源頼朝の「無双の寵仁」であり、つねに頼朝のお側にいた、いわゆる愛童であったと記されている。
初代、大友能直(よしの)城主の「眉目秀麗、女にしたいほどのいい男」が、延々と23代の大友義乗(よしのり)宗麟の孫まで続いていった。
中でも21代城主の大友義鎮(よししげ)、出家して宗麟の時代に、(大友家、そして女たちの)事件が多く知れることになった。
大友家を観る時、(そして女たち)を切り離しては語れないほどの重い役割を担っている。
宗麟にまつわる女たちと戦、宗麟の母を知らない、父を見殺しにしたトラウマ、虚弱体質のイケメン宗麟の生き方、初代より大切にしてきた権威主義、嫡男の吃音に悩む親としての宗麟、南蛮貿易で裏金をため込み献金に精を出した宗麟、キリスト教や禅宗に生き方を求めた宗麟
などなどを頭の片隅に置きながら、第21代、大友家城主、1587年(天正15年)58歳で病没した宗麟の一生を眺めていこう。
大友家、そして女たちが、支えた歴史をつぶさに観ていこう。