syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 410 泣きながらの登園、あれは何だったのか?(教育35)

 あまり詳しくは覚えていないのだが、今から80数年前、自宅から歩いて5分の幼稚園にそれこそ毎日泣きながら登園したのは、あれは何だったのか?


 あれは生活習慣病の一種だったのではとこの歳になって気づいた。


 生まれてすぐに肺炎を起こし、最後の手段として母からの輸血をして今夜収まらなければ覚悟をしてくださいと医師から宣告されたと。
 不思議に次の日の朝から熱が引き、すやすやと穏やかに眠ったと、よく両親から話を聞かされたものだ。


 私は生まれて一度死んで母の輸血で生き返った人間であると自覚している。


 死を食い止めてからの幼児期の生活は超過保護で母と祖母の付きっ切りの生活であったという。
 友だちとの遊びもなく、土の上を歩くのも自宅の庭の中だけで完全に外部を遮断した生活であった。


 入園前の年に父の仕事の都合で別の土地に転居して、両親と私の3人家族の生活が始まった。
 その次の年に入園して幼稚園に一人で通うことになったのである。


 泣きながらでも遅刻することも欠席することもなく1年間通ったことも不思議である。


 休むことなく通園できたのは幼稚園の先生のおかげてあったと思っている。幼稚園の恩師は後に妻の恩師である男性と結婚して、その妻の恩師が中学校の校長の時、私がその学校の研究主任として在籍した。


 まことに不思議な縁でその後ずうっとお付き合いが続いた。


 泣きながらの通園は、生活習慣の急激な変化によるものであると認識して、生活習慣病と勝手に呼んでいる。


 なぜ、遅刻も欠席もせず卒園し、隣接する歩いて5分の小学校も同じく遅刻も欠席もなく学校生活が送れたのか。


 この辺の幼稚園生活と小学校生活をつぶさに考察していけば、生活習慣による不登校の問題は解決できると考えている。


 生活習慣による不登校傾向以外の心理的要因や身体的問題を抱えている件については、教育研究所(後の教育研究センター)で研修を積んで
県内初の不登校対応の教室を文部省(後の文部科学省)の研究助成を受けて開設をした。


 この体験は、わたしの宝物である。
 その後の教職生活のすべてを支える力となった。


 泣きながらの登園体験が私の研究生活、教職生活の出発である。
 よくぞ泣きながらでもやり通したなあと今は満足している。


  泣きながらの園児を受け入れてくれた幼稚園の先生や小学校の学級担任や恩師に改めて感謝している。ありがとうございました。


  

×

非ログインユーザーとして返信する