syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 355 ふるさとを持てない現代人

 盆や正月、法事や結婚式など行事があるたびに母に連れられて、母の故郷へ行ったものだ。


 家の前の左手の方にキンカンと枇杷の木があり、右手の方にはミカンの木、ぐるりと回って裏の方へ行くとイチジクの木、柿の木そして広々とした畑には季節季節のスイカやマクワなどがなっていた。


 当時、母の里は大家族で、祖父母におじさんやおばさん、それにいとこ達が五人いて、嫁いでいたおばさんたちが里帰りをしていて大賑わいであった。
 いとこ達と前に広がる海へ行きマテ貝を取ったりカニを捕まえたり、裏の山では、アケビや山芋ほりを経験した。


 これが私のふるさとの風景である。




 今でも盆や正月、帰省列車から降りてくる子供にインタビューすると「おばあちゃんのうち」「おじいちゃんのうち」とほとんどの子供が答える。


 そういう里へ帰れる家族は幸せである。多くの人たちが「帰りたくても帰れない」という状況である。さらに、故郷そのものが無くなってしまった人たちも多い。


 故郷の中に昔の景色があり、懐かしい人たちが暮らしており、「家」「墓」「小学校」などが存在して初めて故郷を実感できるようである。


 今、故郷を持てない現代人が増えたのは、故郷の風景や故郷の家や故郷の小学校が無くなり地域の人間関係も薄くなってしまったことに起因するようである。
 昭和生まれの高齢者は、故郷に帰っても浦島太郎の心境になってしまう。地域そのものが消えて、知っている人も誰もいなくなり、小学校が廃校や統合でなくなり昔のことを思い出すこともできなくなってしまった。


 ここまで僻地と言われる村々を経済効率だけで潰してもよいものであろうか。経済効果が全てで故郷を持てない現代人が増え続けていく。


 故郷喪失は、家、地域、親戚等の繋がりを希薄なものにしてしまう。


 個人中心の世界の中でしか物事を考えず個人中心の行動になってしまいがちである。


 ここまで進んできた社会をもとのような社会に戻すことは無理な話でである。
 それを一歩でも進めるのが教育の仕事になるであろう。地域社会に根差した学校、その学校を地域コミュニケーション中心に据え活動を広げていく文化が必要になってくる。


 このまま故郷の無い現代人をつくっていくと自然と日本が消えてなくなるのではないかと思ってしまう。
           
                             平気で不正を行う現代人には故郷がないのであろう。


                       

              

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