syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 268 乱れましたなあ (教育11)

                 正義・礼儀・義務・抑制などが死語になりつつある危険


 昭和20年代の敗戦後の日本は相当に乱れた。
 そして、平成から令和にかけての今も相当に乱れている。


 敗戦後の乱れと現代の乱れは何かが違うような気がする。


 敗戦後の乱れは、命を繋ぐための食っていくための乱れであったような気がする。そして心のどこかに恥を知る精神が残っていた。
 今の乱れは、「利」に左右された乱れの割合が大きくなったような気がする。それだけに「うまいことやった。」で事件は終わる。


 乱れの内容は今も昔も同じである。窃盗・詐欺・殺人・売春・暴力などと。
 命を繋ぐためにやむを得ず犯罪を犯していくのと、個人の欲望を満たすために「利」のために社会を乱していくのとは犯罪の動機が違う。


 前者の場合は、食の確保と職の確保で割と早い時期に社会の乱れを収めることができた。
 それから社会が豊かになっていくにしたがって、「利」に左右される乱れが主力になってきた。「利」に左右される乱れはそれを収めることは生易しいものではない。非常に難しい。


 立法・行政・司法の三権に関わる人たちが、国民の利のためではなく個人の利のために動くと改善不能の状態が続くことになる。


 中でも三権に関わる人たちのある集団が「教育」「医療」「宗教」を儲け事の手段に利用したことが社会の乱れの大きな原因である。


 正義も礼儀も義務も抑制も「利」によって左右され乱れていく社会をどのようにして治めていくかが大きな問題である。


 本来なら、政治に携わる野党が頑張らなければならないのであるが、現状では野党が野党としての働きが出来ていない。野党は国民のために何をすればいいの分かっているのかどうなのかも分からない状態である。


 次に、第4の権力と言われる「マスメデア」が三権監視の役目を果たさなければならないのにそれもある一部の報道機関が頑張っているだけで、国民のためのNHKまでが役割を果たせなくなっている。


 労働組合もどう動いているのか頼りにならない。


「正義・礼儀・義務・抑制」等の精神を蘇らせるには、やはり「教育に待つ」よりほかに手はないのであろうか。その教育が「利」によって動かされているとなると「手のつけようがない」ということになる。


となると、世の中の変化や新しい技術の活用などが乱れを収める手段になるのかもしれない。
 第4の権力に代わる第5の権力として、「インターネット」による個人の直接参加。多くの国民がネットを通してまとまっていく。
 労働組合やマスメデア、政治や教育、医療や宗教に携わっている人のネット情報の活用が、新しい力となるように生かす。


 少子化や高齢化もある意味では一つの力となる。


マイナンバーカードは、これからどのような力となるのかも見守っていく必要がある。
     
     マイナンバーカードがとんでもない力を発揮するようになるかも。

      

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