卒寿小論 60 女房に恋するの <掌編16>
サラーリーマンにとって土曜日の夜なんざあ、まさに天国ですなあ。近頃は週休二日の所が多くなって、金曜日がキンキンキラキラ金曜日と言って、土曜日から金曜日に天国が移ったそうですが。
まあどちらにしても、それぞれが好きなことに生き甲斐を感じることで、結構なことです。
趣味の多様化、個性化などと申しまして、車を飛ばしてちょいとお風呂に行く人、スポーツセンターで汗を流す人、土いじりをする人、何もしないでごろごろと寝ている人、ただ食べることのみに生き甲斐を感じている人、いろんな人がいます。
県庁勤めの次郎さん、広告会社の熊雄さん、自動車会社の大八さん、自営業の浩一さん。
この4人がひょんなことからマージャン友達になりまして、毎週土曜日はマージャンで過ごし、帰りにいっぱいと陽気で元気な仲間です。
男も40を過ぎてきますといろんなことがようく分かるお年頃になります。とりわけ、自分の能力というものについてはいやというほど自覚するものでございます。
自然と望みも小さくなり人生そのものがこじんまりとまとまってしまうというのが、世の常の男性族の姿でございます。マージャンして、一杯飲んで飲むほどに生き甲斐を感じる凡人がいてもこれまた当然結構なことで。
飲むほどに酔うほどにだんだんと理性の枠が緩み始め、酔眼朦朧としてきますと男の地が出てきます。
「次郎さん。真っ直ぐに家に帰ってよ。」
「大丈夫、大丈夫、熊さんも大さんも浩ちゃんもありがとうね。だいじょうぶ、だいじょ
うぶですからね。」
「次郎さんが大丈夫を繰り返し始めると大変ですからね。奥さんに連絡しておいた方がい
いんじゃないの。」
「次郎さんの姿がもう消えてしまったよ。」
県庁勤めの次郎さんの悪い癖が出始めると2・3軒はしごしないとなかなかに家に帰らない。連絡受けた奥さんが見当をつけてお迎えに行くのが習慣になってしまいまして。
次郎「涙に潤んだその瞳、男を引き付けるその唇、あなたのような方にお目にかかるのは初
めてです。あなたのような素晴らしい女性が現れるのを僕は待っていたのです。僕は
参ってしまいました。」
女 「家に帰ればちゃんとした奥様がお待ちになっている殿方が行きずりの戯れにおっしゃ
ることをいちいち真に受けていてはたまりませんわ。」
次郎「下らぬ古女房は一人おりますが、顔は猿、心は鬼です。離縁しようと思っていたとこ
ろです。」
女 「これはまた、本心でしょうか。空事でしょうか。」
次郎「いえいえ、本当、年来の宿願がかなってあなたのような美しい人に会えるなどとは神
様のおぼしめしでしょう。無性に心が躍ります。お名前だけでも。」
女 「私、ヨシノと申します。」
次郎「よいお名前で。」
女 「三年前に夫に死なれまして今一人暮らしです。ちょっとの間水商売に身を置いたので
すが、あいませんで、それに、仕事をしなくてもと言われる方がございまして、今は
やめて一人暮らし私迷っていますの。まあごめんなさい。こんなことを申し上げ
て。」
次郎「僕はあなたのような人の現れるのを待っていたのです。今夜はあなたのお供をさせて
ください。」
女 「いいえ、いけませえわ。奥様に悪いもの。」
次郎「構いません。あなたとならばどこまでも。」
女 「あなた。」
次郎「誰かが呼んだようだが。」
女 「あなた。」
次郎「おや、どこかで聞いたような声だな。」
女 「あなた。」
次郎「妻の声、これはどうしたことです。」
女 「あなたはどうしてこんな浮気心を出すのです。あなたの同僚から連絡があって、念の
ためにできたのです。私は今日まであなたのことを信じていました。今日という今日
はもう我慢ができません。どこへなりと好きな所へ行ってください。私の前に二度と
顔を見せないで。私も決心しました。あなたは惚れた女のもとに行きなさい。」
次郎「大変だ、大変だ。」
熊雄「どうした。次郎さん。」
次郎「実はさっきの女、あれはうちの女房だ。」
熊雄「そりゃあ大変だ。酔いに任せて。悪い癖が出たのだろう。奥さん怒ったろう。」
次郎「怒った、怒った。二度と自分の前に顔を出すなって。」
熊雄「それだけかい。」
次郎「いいや。惚れた女の所へさっさと行ってしまいなさいって。」
熊雄「そりゃあ好かった。奥さんの所へ行っておやりよ。」
馬酔木 季節の花300より
花言葉は「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしましょう」。