syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 12 雪に来てさて割り箸も <川柳>

 雪国や雪の降っている街への旅という経験はほとんどない。私の生活と雪というのはあまり縁がないようである。


 ただ一度。雪に埋まったホテルの旅がある。


 ホテルについた日は周囲の草原の野焼きが終わった日で辺り一面が真っ黒に沈んでいた。


 湯布院の高原ホテルの朝。目を覚ましてカーテンを開けてびっくり。


 昨日はホテルを取り囲んだ周り全体が真っ黒だったのが、今朝は雪、それも今までに見たことのない厚さの雪に覆われて真っ白である。


 生涯初の経験であった。


    雪に来てさて割箸も憎からず   岸本水夫
    旅人へ残雪というおすそわけ


    

  参 考 
 岸本水府(1892~1965)川柳六大家の一人、享年73歳
 『三重県に生まれ、大阪成器商業を卒業、新聞記者を振り出しに化粧品、衣料、洋菓子などの宣伝を手がける。現代のコピーライタの走り、17歳ごろ水府丸の号で川柳をスタートさせる。『番傘』創立に参画。伝統川柳の言葉を嫌い、本格川柳と呼ぶことを提唱した。』


  友達はよいものと知る戎橋
  大阪はよいところなり橋の雨


  今にしておもえば母の手内職

  山々の姿も平家物語        大原から見る京の山々、歴史を思う。


  何万の食べものあるにおもゆだけ  この句を残して73歳で没

卒寿小論 11 冷蔵庫貧しき日あり <川柳>

    冷蔵庫貧しき日あり富む日あり   椙本紋太


 昭和の時代の公務員は貧しかった。
 もっとも敗戦の昭和20年代は日本全体が貧しかった。
 昭和30年頃から景気がよくなり始めたが、あまり関係なく地方公務員は貧しかった。


 まず、冷蔵庫が家になかった時代である。昭和40年頃から全国的に冷蔵庫が普及し始めて我が家にも冷蔵庫と洗濯機が揃い一足先の電気釜と合わせて三種の神器といわれた電気製品が整った。


 それでも車社会は程遠く、二輪車、ホンダのカブが街中に溢れていた。
 私もホンだの単車にのって通勤していた。
 そんな時代、冷蔵庫を見ると家の経済状態が一目でわかった。冷蔵庫は財布そのものであった。


   冷蔵庫貧しき日あり富む日あり  その通りです。泣けてくるなあ。


 参 考
 椙元紋太(すぎもともんた)(1890~1970)享年 79歳 紋太の死によって、川柳六大家の全てがなくなり、川柳における一つの時代が終わりを告げた。


 『神戸市花隈に生まれ、18歳ごろから新聞に投句を初めて川柳生活をスタートさせる。藤村青明に兄事して、昭和4年にふあうすと川柳社が創立された際に代表、編集発行人となりる。「川柳は人間である」を標榜して、人と違った個性ある作品を、個々の人間と一体化主導的創作には雑詠が相応しいなど、当時としては一歩前を進んでいた。』


    水撒けば浴衣の人がもう通り
    清流の渦やすみなく小鳥啼く


    知ってるかあははと手品やめにする
    弱い児に弱いと言わぬことにする
  
    限りなくあなたお前の日よ続け
    皆咲けば 百花繚乱 妻の庭



    よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み   神戸市生田神社境内 句碑


       

       植えた記憶のない花が咲く庭  鹿の子百合

卒寿小論 10 俺に似よ <川柳>

    俺に似よ俺に似るなと子を思い  麻生路郎


 親として気になるところだ。俺のような生き方をすることはない。と、思いながらも俺のように生きろと思うこともある。 
 切ない。子を思う親の気持ちは万国共通である。子どもの健康を願い多くの友人たちに恵まれて平穏無事な一生を送って欲しいと願っている。


 この歳になって親の思いを深く考えることができるようになった。これも孫ができひ孫が出来ての暮らしの中で気づいたことである。


参 考
 麻生路郎(あそうじろう)(1888~1965)川柳六大家の一人。本名・幸二郎。肝臓障害で没。享年77。
『広島県尾道市に生まれ。大阪高商卒業後職業を転々としながらも、16歳頃から田能村朴念仁選に投句を始め川柳をスタート。大正13年『川柳雑誌』を創刊。昭和11年には「川柳職業人」を宣言する。「いのちある句を創れ」「1句を残せ」を標榜した。』



  大杉(大杉栄)を殺し思想を取り逃がし
  あの博士今度は民主主義を売り


  だしぬけに鐘の鳴るのも旅のこと
  鼻の偉大さ山脈を思わされ


          飲んで欲しやめても欲しい酒を注ぎ   
           酒豪、麻生路郎の妻(葭乃)の句


          

            優しく切ない酒だよ人生の