卒寿小論 7 味噌汁の匂い <川柳>
味噌汁の匂い十歩の庭に風 村田鯛坊(改号して周魚)
2022年(令和4年)の庭のつつじ
何の説明もいらない一読明快な句である。
敗戦後の日本は貧しかった。が、貧しいという意識はなかった。日本人皆が食うのに精いっぱいであった。貧富の格差などこれっぽっちも考える暇もなく小学生時代が過ぎた。
さすがに中学生になるころから敗戦後の日本も落ち着いて、落ち着くにしたがって「俺の家は貧乏なんだ。」と思うようになった。
貧しいことが切実な問題ではなっかた。母の郷が農家であったので食うに困ることはなっかた。
向こう三軒両隣の夕食の匂いで飯が食えた敗戦後の生活が懐かしい。
味噌汁の匂い十歩の庭に風 鯛 坊 庶民の匂いが満ち溢れている。
幸せだなあ。
酒に茶に友送る日を手の温み 周 魚(しゅうぎょ)
昭和16年太平洋戦争の召集令を受け、挨拶に来た仲間に酒や菓子を共にし、無事の帰還を祈った手の温みが伝わって来る。何人の仲間が帰ってきたのであろうか。
参 考
1889年(明治22年11月17日)に江戸下谷上車坂で生まれ、本名は泰助。
東京薬学学校〔明治42年〕卒,早稲田大学中退。俳人の父に従い運座に出席、門前の小僧ならぬ門内の小僧として、自宅で催された俳句の講義に6歳で加わっていた。
関東大震災に会い江戸下谷上車坂から豊島のうづら山へ転居。号を鯛坊から周魚と改める。
「川柳きやり吟社」の主宰として確固たるものを築いた。
おたがいの貧乏論にある笑い 周 魚
歯朶わびし生まれた町の名が消され 周 魚
勉強をしろと子に吹く秋の風 周 魚
多町まで秋が来ている空の色 周 魚
秋色の空と秋色の風が体を吹き抜ける。人恋しくなるね。
素直に俳句や川柳から生きる力をもらって中くらいにめでたく人生が終わればすべてよし。