syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 97 あの方です <掌編25>

          

           季節の花300より コーヒーの実


 世の中には自分にそっくりの人が3人はいるものだとよく言われているが、まことその通りである。


「電車でお会いしましたですね。今、お帰りですか。」
「はい。」
「あなた、ほれ、ほれ、名前が出てこない。あの女優さん・・・」
「あの方ですね。」
「そう、あの方です。よく言われるでしょう。」


「ええ。よく言われます。妹です。」
「そうでしょう。笑った時の口元などそっくりです。」
「ごめんなさい。冗談です。」
「いやいや、妹と言ってもいいですよ。みんな信用しますよ。僕は今でも信用していますよ。」
「本当にごめんなさい。亡くなった父にそっくりだったものですから。」


 二人は話しながら気が付いてみると同じ方向に歩いていた。


「定年退職をして年金生活2年が終わろうとしているのですが、もう一度大学の専科に入って中途半端になっていた研究に取り組もうと思いましてね。」
「研究と言いますと。」
「趣味の延長線のようなものですが、江戸文学の井原西鶴をはじめ草双紙の現在の生活との比較など興味がありましてね。まあ、晩年の暇つぶしのようなものです。」
「いいですね。悠々自適な趣味に生きる。理想的な生活ですね。」
「定年退職の1年前に妻を亡くしまして、少しだけ落ち着きができまして。」
「この道を右に曲がると学校ですが、左に曲がって10分ほどのところが私の家です。是非お帰りの時はお寄りください。母も娘も喜びますわ。」


 用事を済ませた黒田武士は先ほど教えてもらったあの方の家の前に立った。庭の敷地の中に離れの2階建ての別棟の家が並んで母屋と渡り廊下でつながっていた。


 急に小学生の女の子の声が背後でした。
「おじいちゃんだ。」
私が振り向くと、
「そっくり。」といって笑顔で玄関を開けた。
「ただいま、おじいちゃんそっくりのお客さん。」と、家の中に駆け込んでいった。


 先ほどのあの方が笑顔で出迎えてくれた。
「どうぞおあがりください。」


 あの方の案内で応接室に入った。しばらくしてノックがありドアが開いた。


 コーヒーの香りが部屋いっぱいに広がって年配のご婦人が入ってきた。私は声が出ずに立ち上がったまま直立不動の姿勢になった。「あの方」よりも数倍「あの方」に似たご婦人に釘付けになった。


「喜子さん。」と、ご婦人があの方を呼んだ。


 そうだ、あの方は喜子さんだったんだ。やっと女優さんの名前を思い出した時、小学生の娘がおじいちゃんの写真をもって入ってきた。


「なるほど、世の中にはよく似た人が3人はいるんだ。」と、うなずいてしまった。


 コーヒーの味がひと際上品に感じられた。

                       

                          季節の花300より

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