syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 16 逢えてうれしや <教育>

「逢いたかったぜ3年ぶりに  」
「先輩 昨日会ったばっかりです。」


「逢えてうれしや 飲もうじゃないか  」
「有難うございます。」


 先輩は、高校、大学そして就職とずっと先輩であった。先輩は一回り年齢が上で大学になる以前の旧制の師範学校の卒業生であった。だから、直接の接触は教職についてからであるのだが、高校から同じ道を歩いてきた後輩なので殊の外面倒を見てくれた。


 先輩は師範学校の硬式野球のピッチャで4番バッタ―であった。今で言う二刀流の先駆けで活躍した。


 先輩の球種は直球(当時はストレートとは言わなかった)、カーブ、シュートに落ちるドロップの4種類で特に軽く投げる直球はスナップが効いていて見た目では簡単に打てそうで打てなかった。コントロール抜群であった。


 旧制中学校や師範学校の野球大会で優勝するほどの力があったのでプロからの誘いもあったが断って教職の道へと進んだ。


 「俺はな、中学校で野球の指導をしたいんじゃ。」


 数学の教員免許を持ち数学の指導と野球の指導を楽しんだ。打ち込んだと言った方がいいのかもしれないが、先輩の生き方を見る限りにおいては楽しんだと言った方がぴったりのような気がする。
 数学の指導においても「文部省(現文科相)の指定研究」を受けてやり通した。


「何事も徹底してやれ」というのが先輩の後輩に与えた生き様である。


 定年退職の日が来るとさっさとやめて、地域の草野球と釣り仲間での魚釣りを楽しんだ。


 12月も半ば過ぎの頃、月の行事になっている1年納めの釣りに出かけた。
今までにない大漁で、特に天然のブリを2本釣り上げたのは記録物であった。


 いつものように、釣り仲間の居酒屋を借り切って1年納めの祝杯を挙げた。
酒の場では、先輩の「逢いたかったぜ」の歌で宴会が始まり釣り仲間の大合唱で会が盛り上がる。


逢いたかったぜ 3年ぶりに 逢えてうれしや 飲もうじゃないか
昔なじみの 昔なじみの お前と俺さ 男同士で酒酌み交わす
街の場末の おお 縄のれん

            (作詞 石本美由紀 作曲 上原げんと 歌 岡 晴夫)


 いつものように気持ちよく飲んで、おおいに語り1年納めの1日が無事に終わった。


 次の日の朝早く、先輩の奥さんから電話がかかった。
「今朝方、主人が亡くなりました。穏やかな寝たままのすがたでした。心臓麻痺でした。」


 「えっ。」暫く何も言葉が出なかった。


 享年74歳。何事にも徹した先輩。何事も楽しんだ先輩。そしてあっさりと逝ってしまった先輩。


 酒を飲んでいると「逢いたかったぜ3年ぶりに 逢えてうれしや飲もうじゃないか」と言って顔を出すような気がして、いつまでも生き続けて楽しませてくれるだろう。先輩 ありがとう。


    

         よく飲まされました。有難うございました。


  参 考
 師範学校(しはんがっこう)とは、教員を養成する学校であり、終戦まで初等・中等学校教員の養成を目的とした教員養成機関であった。
 1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等師範学校。東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)の固有名称であった。
 これが1873年(明治6年)8月に他の6大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称したため、以降「師範学校」は教員養成機関の総称となった。


 師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障された。全国から優秀な人材が集まった。


 戦後 新制大学の教育学部、学芸学部として再出発した。
 1966年(昭和41年)に改正国立学校設置法が施行されると、ほとんどの学芸学部は教職以外の分野に進むコースを順次廃止し、その名称を「教育学部」へ変更するようになった。
 さらに「教員養成課程」がおかれて主に小学校教員、中学校教員、幼稚園教員、養護学校教員(現特別支援学校教員)が養成されることになった。


 現在は、あらゆる学部で教員免許を取得できるようになった。


   師範学校の教員養成のあり方を今一度検証してみる必要があるのかも。

卒寿小論 15 手も足となり <俳句 9>

         手も足となり起き上がる夏の朝   正 悟(俳号 藤掌)


        

             甥から貰った一粒の種が


 いやあ、ひどかったですね。50代後半に突然やってきた50肩。布団を敷いて横になったまま身動きの出来ない痛みは初めての経験でした。整骨院に通い半年ほどで完治しました。
 それが最初で最後の痛みでした。その後全く肩の痛みは起こりません。あれ以来整骨院を信頼し、なにかあると通っています。


 50肩がきっかけというわけでもないのですが、俳句を始めました。
冊子の題字「砂やま」、師系 中村草田男先生、それに新潟という地名に惹かれて即決、入会しました。


   降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男
   万緑の中吾子の歯生え初むる    中村草田男


 これを機会に「砂やま」主宰の村山砂田男(さだお)先生のご指導を受けました。2001年(平成13年)64歳にしての初体験でした。


 メモ帳と歳時記を片手にアッというもの3年間で俳句の基礎を学びました。ありがとうございました。


   思ひきりシャンプーの泡旱梅雨    村山砂田男
   薬の日の手しなふまで洗ひけり    村山砂田男



   正悟(俳号 藤掌)自撰 10句 


   初明かり鼓動確かに吾が息吹
   点呼の声受験列車吹雪く朝


   きりきりと寂しさが通り過ぎる春
   お点前の今一服と笑む春着


   樟若葉重なりあふて鬱に入る
   何もかも水と流すか五月晴れ


   この世の毒浴びて艶めく彼岸花
   ふるさとに戦後が生きてる紅ダリア


   木枯らしや娘(こ)が母となる午前二時
   すやすやと熊のプーさん掛け毛布


       ある日突然、俳句が詠めなくなりました。


     茎立ちて蒼茫の地に種落とす  この句を最後の句にしました。


       

            吾亦紅 季節の花300より
            花言葉は「変化」「もの思い」「愛慕」。

卒寿小論 14 しぐるるや <俳句 8>

    しぐるるや人のなさけに涙ぐむ  山頭火


    

     コスモス 季節の花300より
    花言葉「愛情、たおやかさ」「乙女の真心」
       「調和」「謙虚」。
 定年退職をした年の11月、妻と湯平温泉に出かけた。
駐車場に車を置き、湯平温泉名物の石畳を登り始めて直ぐ、時雨に出会った。
急いで目の前の小店にて雨宿りをさせてもらった。
「どうぞ。」と言って、店の女主人が茶を勧めてくれた。


「ありがとうございました。」と湯のみを返して、奥に目がいった。


 山頭火の掛け軸が、眼に止まった。


  しぐるるや人のなさけに涙ぐむ    山頭火


「今日は湯平温泉の山頭火祭りの初日です。どうぞごゆっくりと楽しんでください。」


山頭火の作品を展示している「時雨館」に入った。


  どうしようもないわたしが歩いている
  さてどちらへゆこうかかぜがふく


  秋風の旅人になってゐる山頭火
  やっぱり一人がよろしい雑草の中


  いつでも死ねるかいつでも死ねる


 参 考
1882年(明治15年)12月3日、山口県佐波郡の大地主、種田竹次郎とフサの五人兄妹の長年として生まれる。本名 種田正一(しょういち)正一11歳の時に33歳の母が自宅の井戸に投身自殺。この母の死が山頭火の生涯に大きな影響を与えた。


1902年(明治35年、20歳)早稲田大学文学部に入学するも1904年神経衰弱のために退学。


1911年(明治44年、29歳)の時に結婚。長男健が生まれる。
1924年(大正14年、42歳)得度して、「耕畝(こうほ)」と改名。
1932年(昭和7年、50歳)体調不良から自殺未遂を起こす。
1940年(昭和15年)10月11日、脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた。享年58