syougoのブログ

余命ゼロ年代を生きるために

卒寿小論 13 とんぼ釣り今日はどこまで <俳句 7>

 小学校高学年ぐらいだったか。昭和20年代の別府市内はいたるところに小川が流れ緑の野菜畑が広々として、多くの種類の蜻蛉がとんでいた。


 中でもオニヤンマという種類の蜻蛉はかっこよく子どもたちの人気が高かった。
 メスのオニヤンマが手に入れば越したことはないのでだが、メスはなかなか手に入らなかった。
 そこでオスのオニヤンマを捕まえ羽のすぐ下腹の青い部分に近くのサツマイモの葉っぱを手でもみ崩してそれを貼りつけて偽装のメスオニヤンマに仕立ててとんぼ釣りをしたものである。


 とんぼ釣りにはちょっとしたコツがある。おとりの蜻蛉に近づいてくる。おとりの蜻蛉をゆっくり飛ばしながら寄ってきた蜻蛉を上手に誘いこんで地面に静かにおろしていく。
 いくらでもオスのオニヤンマが引っかかって面白いほどとんぼ釣りができた。


 とんぼ釣りを終わる時は、全ての蜻蛉を逃がして50センチほどの竹竿だけを手にして家路に向かったものである。


 夕げの支度をしている家々の匂いが懐かしい。


 そんな経験があるので千代女のこの俳句はストンと体の中に入ってきた。


       とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら  千代女


     

       サツマイモ畑  季節の花300より


 幼くして亡くした一人息子を偲んで詠んだ母の心情。全ての親を代表してのせつない慈悲あふれる句である。この一句は涙を誘う。


「とんぼ釣り」という遊びは、昭和20年代ごろまではあった。私たちの世代が「とんぼ釣り」の最後であろう。


 参 考
 加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。


 加賀千代女(かがのちよじょ)は、松尾芭蕉の『奥の細道』が刊行された翌年(元禄 16年=1703年)に生まれている。 72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。


  朝顔に つるべ取られて もらい水    代表句とされている。


  鴬や 椿落して 迯(にげ)て行
  春雨や うつくしうなる 物ばかり


  照もよし ふるも夏野の 道すがら
  結ぶ手に あつさをほどく 清水哉


  夕暮れや 都の人も 秋の顔
  朝顔や 宵から見ゆる 花のかず


  美しう 昔をさくや 冬ぼたん
  独り寝の さめて霜夜を さとりけり


  月も見て我はこの世をかしく哉      辞世の句  享年74歳


 「かしく」という意味がよく分かりません。教えてください。宗教的な匂いを感じる辞世の句ですね。


 意訳の例 引用
『病気の私は、もう命が短いが、仲秋の名月の夜、今年も 明るく澄みわたった満月を見ることができた。
そして、 世の中のあらゆるものを十分に見つくしたので、思い残すことなく、心やすらかにこの世の中を去ることができる。』


『かしく”は女性だけが最後に付ける事を許された言葉”かしこ”と同じ言葉だったらしいですが、かしこく生きて世を去る時に「、、それでは、この辺で、かしこ」とさっぱりと行きたいものです。』


     

       朝 顔  季節の花300より
       花言葉は「はかない恋」「固い絆」「愛情」。

卒寿小論 12 雪に来てさて割り箸も <川柳>

 雪国や雪の降っている街への旅という経験はほとんどない。私の生活と雪というのはあまり縁がないようである。


 ただ一度。雪に埋まったホテルの旅がある。


 ホテルについた日は周囲の草原の野焼きが終わった日で辺り一面が真っ黒に沈んでいた。


 湯布院の高原ホテルの朝。目を覚ましてカーテンを開けてびっくり。


 昨日はホテルを取り囲んだ周り全体が真っ黒だったのが、今朝は雪、それも今までに見たことのない厚さの雪に覆われて真っ白である。


 生涯初の経験であった。


    雪に来てさて割箸も憎からず   岸本水夫
    旅人へ残雪というおすそわけ


    

  参 考 
 岸本水府(1892~1965)川柳六大家の一人、享年73歳
 『三重県に生まれ、大阪成器商業を卒業、新聞記者を振り出しに化粧品、衣料、洋菓子などの宣伝を手がける。現代のコピーライタの走り、17歳ごろ水府丸の号で川柳をスタートさせる。『番傘』創立に参画。伝統川柳の言葉を嫌い、本格川柳と呼ぶことを提唱した。』


  友達はよいものと知る戎橋
  大阪はよいところなり橋の雨


  今にしておもえば母の手内職

  山々の姿も平家物語        大原から見る京の山々、歴史を思う。


  何万の食べものあるにおもゆだけ  この句を残して73歳で没

卒寿小論 11 冷蔵庫貧しき日あり <川柳>

    冷蔵庫貧しき日あり富む日あり   椙本紋太


 昭和の時代の公務員は貧しかった。
 もっとも敗戦の昭和20年代は日本全体が貧しかった。
 昭和30年頃から景気がよくなり始めたが、あまり関係なく地方公務員は貧しかった。


 まず、冷蔵庫が家になかった時代である。昭和40年頃から全国的に冷蔵庫が普及し始めて我が家にも冷蔵庫と洗濯機が揃い一足先の電気釜と合わせて三種の神器といわれた電気製品が整った。


 それでも車社会は程遠く、二輪車、ホンダのカブが街中に溢れていた。
 私もホンだの単車にのって通勤していた。
 そんな時代、冷蔵庫を見ると家の経済状態が一目でわかった。冷蔵庫は財布そのものであった。


   冷蔵庫貧しき日あり富む日あり  その通りです。泣けてくるなあ。


 参 考
 椙元紋太(すぎもともんた)(1890~1970)享年 79歳 紋太の死によって、川柳六大家の全てがなくなり、川柳における一つの時代が終わりを告げた。


 『神戸市花隈に生まれ、18歳ごろから新聞に投句を初めて川柳生活をスタートさせる。藤村青明に兄事して、昭和4年にふあうすと川柳社が創立された際に代表、編集発行人となりる。「川柳は人間である」を標榜して、人と違った個性ある作品を、個々の人間と一体化主導的創作には雑詠が相応しいなど、当時としては一歩前を進んでいた。』


    水撒けば浴衣の人がもう通り
    清流の渦やすみなく小鳥啼く


    知ってるかあははと手品やめにする
    弱い児に弱いと言わぬことにする
  
    限りなくあなたお前の日よ続け
    皆咲けば 百花繚乱 妻の庭



    よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み   神戸市生田神社境内 句碑


       

       植えた記憶のない花が咲く庭  鹿の子百合