「笑い」を一番怖がっているのは、権力者たちである。 一般国民は「笑い」を楽しみ、「笑い」に生きる勇気をもらい日々の生活を頑張っている。 一番に検閲と弾圧の対象になるのが「笑い」である。 続いて、演劇や文学作品に検閲の眼が注がれる。平和な今でも「そういう目」で調査活動をしている公務... 続きをみる
漫文のブログ記事
漫文(ムラゴンブログ全体)-
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歳をとるということは、創造して生きて行くこと 『日々、違う。生きていることに、同じことの繰り返しはない。』 ~老いてなお、道なき道を手探りで進。~篠田桃紅 私は、平々凡々と同じことを繰り返して生きてゆくのが好きである。そんな日々の方が、心が落ち着き和むのである。 先人・先輩たちの歩いて... 続きをみる
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この寂しさを観音様は微笑む 『自分という存在は、どこまでも天地にただ一人。』 ~自分の孤独を客観視できる人でありたい。~篠田桃紅 そう思いたいのであるが、私は孤独という体験がない。 母が言っていた「人は人中、地は地中。」で、路地裏の焼酎の匂いが吹き抜ける人の多い便利の良い土地に住んでいた... 続きをみる
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古代の「人」は一人で立っていた 『自らの足で立っている人は、過度な依存はしない。』 ~そもそも介入しない、期待もしない、負担にならない。~篠田桃紅 自分では、自らの足で一人で立って生活をしているつもりであるが、多くの人に支えられて生きていることをひしひしと感じる。 介入もしないと自分では思っ... 続きをみる
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百歳はこの世の治外法権 『自らに由(よ)れば、人生は最後まで自分のものにできる。』 ~意に染まないことはしない、無理もしない。~ 篠田桃紅 意に染まないことでもやらなければならないことがこの世の中には多すぎる。いくらストレスを感じても無理をしなければならないことも多くある。 定年退職をして... 続きをみる
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「103歳になってわかったこと」篠田桃紅著 45万部のベストセラー 篠田桃紅 1913年(大正2年)生まれ、2021年3月1日没(107歳) 美術家、版画家、エッセイスト 篠田正治氏は従弟 2015年(平成27年)79歳の春にこの本を手にして、それ以来手元に置いて再読している。歳を重ねるにつけて読... 続きをみる
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定年退職をして、暇な時間が多くなった70歳過ぎごろから「小津安二郎と木下恵介監督の作品をユウチュウブで観るようになって、邦画もなかなかいいじゃないとくつろいだ一時を過ごした。 小津さんは、私より一回り上の年代が支え、木下さんは私より一回りしたの年代のフアンが多かったようである。 私の年代、昭... 続きをみる
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新聞の見出しに「東電風評被害」という見出しが出ていた。 近ごろ政治家はじめ多くの人が「風評被害」という言葉を口にする。 東電原発事故は風評被害であったのかと事実を知らない人たちは思ってしまう。 この見出しは。「東電風評被害」は「東電原発事故の現状」とするべきだと考える。「風評」という言葉を入れると... 続きをみる
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野党の諸君。みなさんは本当に野党ですか。 野党が野党としての働きをすれば政治は変わると思うのですがね。 税の基本は「富める者から貧しい者への分配である。」と聞いたような・・・ 消費税を導入したことによって、貧しい人から集めた金も富める者へと分配している。 消費税が上がればもうかる人がいる。 それが... 続きをみる
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当地ではアロエのことを医者いらずと言って活用している。 特に擦り傷火傷におなかの不調にと。これが不思議と効くんだ。 昭和30年代の医者は、患者と真正面に向き合って診察をしていた。 今は、コンピュータ と真正面に向き合って、時々患者の方に顔を向けて診察する医者を多く見かける。 私は学生時代... 続きをみる
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選挙が近づくと政治家の誰かが言い始める。 「日本を変える闘い」をしますと。 この国を変えるや自民党をぶっ壊すと言って総理にまでなった小泉さん。小泉さんは変えようとした内容がはっきりしていたのでそれなりに理解が出来た。 ただ、この国を変えた後、国民は幸せになったのかという検証が出来ていない。こ... 続きをみる
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橋田寿賀子さんの死で思い出したのが、昭和を代表するカッコイイ文芸評論家、江藤淳氏である。 何がカッコいいかと言えば文芸評論は勿論、時事評論も彼の人生そのものが変化球なしの直球勝負であったこと。 昭和30年代から文芸春秋を購読していたが、江藤淳氏の論文が載ってない月がなかったほどに彼の文章を読... 続きをみる
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作家の橋田寿賀子さんが、2017年92歳の時に文春新書で「安楽死で死なせてください」と、安楽死宣言を公表した。 「人に迷惑をかける前に死に方とその時期ぐらいは自分で選びたい。」 「そろそろおさらばさせえて下さい。」という権利があってもいい。 そして3年後、95歳でリンパ腫で亡くなられた。 満足... 続きをみる
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高知県の102歳の医師、疋田善平(ひきたよしひら)さんが提唱する「死ぬ1週間前まで健康でいられる秘伝」より 高知県の過疎地で、「誰もが元気にポックリ死ねる町」を体現した102歳の医師が教えてくれる「満足な生と死」とは? ノンフィクション作家の奥野修司氏がレポートしています。 住民の大半の人が... 続きをみる
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卒寿小論 276 妻が私を生かしてくれていたのです。これからも
妻が入院して2週間だらだらと過ごしていたので体の調子がくるってしまった。 9日のネットで調子が狂った原因を理解することができました。 毎日の料理や家事全般、寝返りを2・3時間おきに打たせることなど、筋肉を使っていたのが、私の元気のもとであったのです。 102歳の医師、疋田善平さんの「満足死を目指す... 続きをみる
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第4コーナーを回って、米寿を目前にして「待つことの弱さ」を実感しています。 若いうちからその様な傾向はあったのかもしれませんが歳を取ってからひどくなったようです。特に、家族のことについては落ち着いて「待つこと」が出来ません。 わりと早いうちにその道の専門家に「お任せする」心は出来てきたような... 続きをみる
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人生の最終コーナーを回ってゴールまで一直線。87歳からの生き方を考えています。 妻が入院して、自分がこんなに弱い人間であったのかと思い知らされました。 強く生きるための生き方を学び直さなければと思っていた時に「一日一生仏陀の言葉に出会いました。最初が「遊行」です。 「遊行僧」は、外へ外へとひ... 続きをみる
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昭和30年代の初め教員養成の大学に在学中、OBS放送劇団のテストを受けて合格をした。 私の心の片隅に「声優」という思いがあった。憧れのようなもの。 放送劇団員としての基礎からの練習は楽しかった。 教員採用試験も受けて合格をした。さて、どの道へ進むべきか。 親をはじめ親戚一同から、教師の道... 続きをみる
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理想は高く掲げるが、毎日の実践は平平凡凡と粘り強く繰り返すだけである。 凡常にいつもと変わらない日常の生活の中で、教師としての使命感や責任感が静に深く伝わってくるような生き様がよい。 中でも「正義と公正」の姿が大げさにではなく極めて自然ににじみ出てくる生活態度がよい。「正義と公正」は、「信頼... 続きをみる
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いつの時代も教育という仕事は大変であるが、昭和・平成・令和の中でも今が一番大変である。 戦前戦中と教え子たちを戦場へ送り出した大変さと、戦後生きることのために罪を犯した教え子を見ることの大変さと、今、世の中が見えない時代の教育の大変さ。 どの大変さが一番なのかは、比較することは難しい。が、現... 続きをみる
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曲がりなりにもまともにここまでこれたことに感謝。 1 それ恕か。己の欲せざることは人に施すなかれ。 孔子 <学生時代の出会い。私の生き方の基本です。> 2 つまらぬものは一つもない。つまらぬというは己の小さき智恵袋 <般若の知恵 教職について。> 3 たくましくなけれ... 続きをみる
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卒寿小論 269 教員採用「囲い込み」「教員免許なし」でも(教育12)...
敗戦後、国は教育にどう取り組んできたのか。 1945年の敗戦から78年を過ぎた今、教員になり手がないということを通して、教育に対する課題を見直す時が来た。 優秀な人材を集めることは、教育に関しては無理な課題である。塾の講師なら優秀な人材を見定めることはできるだろう。 特に義務教育に関しては、... 続きをみる
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正義・礼儀・義務・抑制などが死語になりつつある危険 昭和20年代の敗戦後の日本は相当に乱れた。 そして、平成から令和にかけての今も相当に乱れている。 敗戦後の乱れと現代の乱れは何かが違うような気がする。 敗戦後の乱れは、命を繋ぐための食っていくための乱れで... 続きをみる
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同級生や同年輩の退職教員と顔を合わせると話がはずむ。 「今の時代(令和)だったら、務まらんで。あの時代だったから何とか務まったと思うな あ。」 あの時代というのは、昭和30年代で今現在85歳を過ぎた年齢である。 「いやあ、本当によく務まったと思います。」 「先輩が新任教員を連れてよく飲みにつ... 続きをみる
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子孫断絶願望の吉田兼好 何故だ。なぜだろう。兼好の家は代々神祇官あるいは太政官として奉仕してきた家系である。祖父、父、兄弟とそれぞれに官職の次官(すけ)クラスまで上り詰めた身分の家である。 そのような家であったからこそ、「子孫断絶願望」が一つの生き方になったのかもしれないと思われる節もある。... 続きをみる
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私の隣に吉田兼好が二人いる。 一人は同級生で、もう一人は身内である。 二人ともに共通しているところは、高学歴でおまけに背が高くイケメンで、働かなくても一生食っていける財産家である。 二人ともに既に亡くなっているので彼らの供養を兼ねて人柄をしのんでみたい。 同級生の彼は、京都の一流国立大学... 続きをみる
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捨てようと整理していたメモ帳の中に2007年(平成19年)の古希の日の俳句を見つけ、16年前の自分の姿を思い出し読み返していた。 安楽寺しだれ桜に導かれ 安楽寺は先輩の実家、このしだれ桜は歴史もので県 下でも有名 勲章に縁のない身の二人旅 ... 続きをみる
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卒寿小論 260 出生、没年不詳の謎多き吉田兼好(徒然草5)
出生、没年不詳の謎多き吉田兼好 吉田兼好の家系は代々神祇官あるいは太政官として奉仕してきた。 兼好の父、兼顕(かねあき)は治部少輔、兄の慈遍は大僧正、兄の兼雄は民部大輔の官職にあり、兼好は蔵人・左兵衛佐の仕官であった。 治部少輔は官職四等官の2番目である。長官(かみ)の次が... 続きをみる
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兼好と長明の住居観 鎌倉前期の「大火、辻風、遷都、飢饉、地震、保元の乱、平治の乱」と大混乱の中を生きた鴨長明と武士の力が定着してきた安定した鎌倉後期に生きた吉田兼好では人生観に大きな違いが出るのは当然である。 特に、住居についての考えは大きな違いを感じる。 鴨長明は、... 続きをみる
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兼好法師の色の道 兼好法師は相当のイケメンで自信家であったのだろうと思われる。 つれづれ草の第1段のしょっぱなから、『人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。』(容貌や風姿のよいのがよい。) これは相当の自信があっての言葉とみる。 更に、序段の『あ... 続きをみる
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天から降ってきた友 1947年(昭和22年)戦後2年目の学校の風景がまざまざと浮かび上がって来る。 「大石、こっちこい」小学生とは思われないほどのドスの利いた大きな声で、小川が呼んだ。 5年生になったばかりなので大石良治はクラスの者のほとんどを知らなかった。 無... 続きをみる
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兼好の理想とする男性像 「容貌や風姿がよいのがよい。しゃべりぶりも聞きやすく、やさしく穏やかで口数の少ないのがよい。」 『人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。ものうち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎやう)ありて、言葉多からぬこそ、あかず向は... 続きをみる
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家の前を東西に伸びる道路がある。道路に面して小学校の塀が運動場と体育館そしてプールを囲っている。その中央に小学校の南門、通常裏門と呼んでいる出入り口がある。 この裏門を利用している子どもたちは全校児童の1割程度であろうか。それでもいろいろなドラマに出会うことが多い。 今日も下校途中の一年生の... 続きをみる
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漫 文 16 いいじゃありませんか兼好さん いいじゃありませんか 兼好さん つれづれなるまま 日くらして 退屈しのぎの エッセイで かまくら末期の 文化人 一目見るなり そ... 続きをみる
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いいじゃありませんか 方丈記 人災天災 降りかかり 一丈四方の 仮住まい 断捨離元祖の 手本です 川の流れは 絶えずして 平 清盛 天下取り ちやほやされた 少年期 ... 続きをみる
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漫 文 14 いいじゃありませんか 小室さん いいじゃありませんか 小室さん 見女麗しく(みめうるわしく) 情けある 大和なでしこ 拝みつつ 日本男児の 心意気 ... 続きをみる
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漫 文 13 いいじゃありませんかイケメンさん いいじゃありませんか イケメンさん 金と力を持て余し 仏さまでもあるまいに 上げ膳据え膳ありがたや いいじゃありませんか 女子... 続きをみる
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漫 文 12 ポロリとこぼれる命 ポロリとこぼれる命の夜寒かな 思わぬ時に思いもかけない人がこぼれていく 寒行やメガネの似合う若い僧 あれは秀才ですよ。家の跡を継ぐのかなあ 除夜の鐘終わりよければまあいいか 初めもまあまあだったが... 続きをみる
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漫 文 11 いいじゃありませんか東大は いいじゃありませんか 東大は 末は博士か 大臣か わが世の春を 謳歌して 官僚次官を 目指します 官僚次官に 出世して 忖度政治に 精を出し なりふり構わず 太鼓持ち やがて散ります 終わります 知恵と美貌に 恵まれて 官僚次官を 尻に敷き 弁天様でも ... 続きをみる
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漫 文 10 いいじゃありませんかお大臣 手も足となり起き上がる夏の朝 (俳句始の句) 茎立ちて蒼茫の地に種落とす (俳句中断の句) 老衰の 足音ミーと 日向ぼこ (再開できるかなあ) 令和5年になって20数年ぶりに俳句を一句ひねった。。俳句がどうしても詠めなかった。これをきっか... 続きをみる
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大分県では、昭和30年代、学校を出ての最初の赴任地はへき地の学校と決まっていた。 私は県南の学校へ友は県西部の学校へとそれぞれ赴任した。佐伯駅からバスにゆられて数時間峠をいくつか上り下りしてへき地指定の小学校へたどり着いた。 学校に出向く前に腹ごしらえに食堂に入った。昼間から4・5人の日焼けした... 続きをみる
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漫 文 8 はまっちょるなあ 同じ県内でも県北と県南ではまるで分らない方言がある。 入学して最初の講義の日、大講義室に早めに行って、徒然草を読んでいたら、背後から「はまっちょるな。」と今年一緒に入学した県北の男が声をかけて来た。 何がはまっているのかとあたりをキョロキョロしていると県... 続きをみる
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漫文 7 お婆ちゃんのところへ 近ごろ目が悪くなりまして、テレビからラジオの利用の方が多くなりました。 もうずいぶんとテレビを見ていません。以前連休で里帰りする家族の風景がよく映し出されていました。 今はどうなんですかねえ。今は昔の話ですかな。 連休が続きますと長く休... 続きをみる
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笑いは社会を写す鏡である。 日本人の笑いを変えた頓智の天才 曽呂利新左エ門。曽呂利伴内は記録に残っている人物であるが、新左エ門は伝説中の人物である。 戦国時代の武将の側近に居て話やその他の芸能などで武将たちの徒然を慰めた御伽衆を象徴した人物として曽呂利新左エ門の名が残ったのであろう。 頓... 続きをみる
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漫文5 「まくら」が好きですね 落語は「まくら」が好きですね。まくらのセンスで話の内容や話し手の方向がよく分かる。 気に入っているまくら 夕暮れ時、お寺の境内で小坊主が竹竿を振り回しているのを和尚がみて。 「これ珍ねんや、そこでなにをしておる。」 「和尚様、星が美しいので取ろうと思いまして... 続きをみる
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漫文 4 カ行変格活用か 方言で大笑いしたついでにもう一つ方言を紹介します。 カ変 文語 「こ・き・く・くる・くれ・こ(こよ)」 カ変 口語 「こ・き・くる・くる・くれ・こい」 私が最初に新任教師として赴任した南海部郡(現佐伯市)蒲江町でのこと。若者がしゃべっていた言葉が印象的でした... 続きをみる
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日曜日の夜、ラジオ寄席で落語をおおく聞きました。 実際に寄席に顔を出したのは24・5歳だったと思います。東京上野鈴本演芸場で柳家小三治と立川談志の落語が印象に残っています。 小三治も談志も真打になったばかりの若手で生きのいい面白い落語をやっていました。 家内は談志が将来大物になるといい。私... 続きをみる
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敗戦後の日本はラジオと映画の全盛期を迎えます 「日曜の夜のひと時、流れくる歌の調べは思い出の歌新しい歌、皆様の希望を載せて今宵輝く明星は田端義雄さん 帰り船」 こんな調子のアナウンサーのおしゃべりだったような気がします。 歌の後、8時から漫才と落語のお笑いが30分だったかな。 昭和21年、... 続きをみる
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学生時代に柳亭痴楽の「綴り方教室」を聞いて、馬鹿馬鹿しいことに関心を持つようになりました。 まだ地方の学園には落研なるものがなかった時代に2・3人の落語好きが居酒屋で馬鹿話を肴に酒を飲んでいた昭和30年代の初め頃。 落研があればきっと入っていたであろうと考えます。まあそんな意味で自分のことを... 続きをみる
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1972年(昭和47年)35歳の夏 その日はどんよりと曇った一日であった。 昭和の時代の教員は、夏季休業中は自宅研修という名目で自分の意志で自由に過ごすことができた。よき時代であった。 県下で初めて、学校現場での「ことばの教室」を開設して言語障害を持つ子どもの訓練に取り組んでいた。障害を持つ... 続きをみる