“いつ死んでもいい” は本当か 『長く生きたいと思うのは、生き物としての本能。年老いるとそうなる。』 ~103歳だからわかる。生きているかぎり、人生は未完成。』~篠田桃紅 長く生きたいという本能は確かにあるのだが、一方でいつやって来るか分からない死を待つよりも、いっそのこと死を迎え撃つ方が... 続きをみる
掌編小説のブログ記事
掌編小説(ムラゴンブログ全体)-
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学生時代、まだ地方の大学に「落研」がなかった時代にお笑い好きの友達が数人集まって、一杯飲みながら「お笑い談義」をよくしたものである。 当事者が笑われる傾向にあるのが、漫才で、相手を笑わせる方が落語のようにある。という結論が出た。 落語家の中にも「笑われながら、笑わせる。」桂枝雀のような落語家... 続きをみる
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体の変化がスローモーションで再生される 『誰か式、誰か風、ではなく、その人にしかできない生き方を自然体と言う。』 ~自分を洞察している、もう一人の自分がいる。~篠田桃紅~ 変化に気付かないまま暫くたってその変化に気付くことがある。変化に気付くのが遅かったばかりに命を落とした先輩もいた。 ... 続きをみる
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過去を見る自分の目に変化が生まれる 『体の半分はもうあの世にいて、過去も未来も俯瞰するようになる。』 ~まあいいでしょう、とあきらめることを知る。~篠田桃紅 同年代や後輩が死亡して、その死因に「老衰のため」と書かれているのを見ると、「ええっと、驚いてしまう。」 80代後半は老衰なのか。... 続きをみる
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「笑い」を一番怖がっているのは、権力者たちである。 一般国民は「笑い」を楽しみ、「笑い」に生きる勇気をもらい日々の生活を頑張っている。 一番に検閲と弾圧の対象になるのが「笑い」である。 続いて、演劇や文学作品に検閲の眼が注がれる。平和な今でも「そういう目」で調査活動をしている公務... 続きをみる
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歳をとるということは、創造して生きて行くこと 『日々、違う。生きていることに、同じことの繰り返しはない。』 ~老いてなお、道なき道を手探りで進。~篠田桃紅 私は、平々凡々と同じことを繰り返して生きてゆくのが好きである。そんな日々の方が、心が落ち着き和むのである。 先人・先輩たちの歩いて... 続きをみる
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この寂しさを観音様は微笑む 『自分という存在は、どこまでも天地にただ一人。』 ~自分の孤独を客観視できる人でありたい。~篠田桃紅 そう思いたいのであるが、私は孤独という体験がない。 母が言っていた「人は人中、地は地中。」で、路地裏の焼酎の匂いが吹き抜ける人の多い便利の良い土地に住んでいた... 続きをみる
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古代の「人」は一人で立っていた 『自らの足で立っている人は、過度な依存はしない。』 ~そもそも介入しない、期待もしない、負担にならない。~篠田桃紅 自分では、自らの足で一人で立って生活をしているつもりであるが、多くの人に支えられて生きていることをひしひしと感じる。 介入もしないと自分では思っ... 続きをみる
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百歳はこの世の治外法権 『自らに由(よ)れば、人生は最後まで自分のものにできる。』 ~意に染まないことはしない、無理もしない。~ 篠田桃紅 意に染まないことでもやらなければならないことがこの世の中には多すぎる。いくらストレスを感じても無理をしなければならないことも多くある。 定年退職をして... 続きをみる
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「103歳になってわかったこと」篠田桃紅著 45万部のベストセラー 篠田桃紅 1913年(大正2年)生まれ、2021年3月1日没(107歳) 美術家、版画家、エッセイスト 篠田正治氏は従弟 2015年(平成27年)79歳の春にこの本を手にして、それ以来手元に置いて再読している。歳を重ねるにつけて読... 続きをみる
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定年退職をして、暇な時間が多くなった70歳過ぎごろから「小津安二郎と木下恵介監督の作品をユウチュウブで観るようになって、邦画もなかなかいいじゃないとくつろいだ一時を過ごした。 小津さんは、私より一回り上の年代が支え、木下さんは私より一回りしたの年代のフアンが多かったようである。 私の年代、昭... 続きをみる
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新聞の見出しに「東電風評被害」という見出しが出ていた。 近ごろ政治家はじめ多くの人が「風評被害」という言葉を口にする。 東電原発事故は風評被害であったのかと事実を知らない人たちは思ってしまう。 この見出しは。「東電風評被害」は「東電原発事故の現状」とするべきだと考える。「風評」という言葉を入れると... 続きをみる
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野党の諸君。みなさんは本当に野党ですか。 野党が野党としての働きをすれば政治は変わると思うのですがね。 税の基本は「富める者から貧しい者への分配である。」と聞いたような・・・ 消費税を導入したことによって、貧しい人から集めた金も富める者へと分配している。 消費税が上がればもうかる人がいる。 それが... 続きをみる
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当地ではアロエのことを医者いらずと言って活用している。 特に擦り傷火傷におなかの不調にと。これが不思議と効くんだ。 昭和30年代の医者は、患者と真正面に向き合って診察をしていた。 今は、コンピュータ と真正面に向き合って、時々患者の方に顔を向けて診察する医者を多く見かける。 私は学生時代... 続きをみる
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選挙が近づくと政治家の誰かが言い始める。 「日本を変える闘い」をしますと。 この国を変えるや自民党をぶっ壊すと言って総理にまでなった小泉さん。小泉さんは変えようとした内容がはっきりしていたのでそれなりに理解が出来た。 ただ、この国を変えた後、国民は幸せになったのかという検証が出来ていない。こ... 続きをみる
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橋田寿賀子さんの死で思い出したのが、昭和を代表するカッコイイ文芸評論家、江藤淳氏である。 何がカッコいいかと言えば文芸評論は勿論、時事評論も彼の人生そのものが変化球なしの直球勝負であったこと。 昭和30年代から文芸春秋を購読していたが、江藤淳氏の論文が載ってない月がなかったほどに彼の文章を読... 続きをみる
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作家の橋田寿賀子さんが、2017年92歳の時に文春新書で「安楽死で死なせてください」と、安楽死宣言を公表した。 「人に迷惑をかける前に死に方とその時期ぐらいは自分で選びたい。」 「そろそろおさらばさせえて下さい。」という権利があってもいい。 そして3年後、95歳でリンパ腫で亡くなられた。 満足... 続きをみる
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患者の家族の対応に忙しい勤めの中、明るい真っ直ぐな態度で対応いただき本当に有難うございます。 7月29日(土)に救急車で病院へ。診断の結果1週間程度の入院を告げられたが、次の日の検査で消化器に問題が発見され2週間の入院予定に変わった。 518病室から2日後に519病室に、3日目に514病室に... 続きをみる
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高知県の102歳の医師、疋田善平(ひきたよしひら)さんが提唱する「死ぬ1週間前まで健康でいられる秘伝」より 高知県の過疎地で、「誰もが元気にポックリ死ねる町」を体現した102歳の医師が教えてくれる「満足な生と死」とは? ノンフィクション作家の奥野修司氏がレポートしています。 住民の大半の人が... 続きをみる
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卒寿小論 276 妻が私を生かしてくれていたのです。これからも
妻が入院して2週間だらだらと過ごしていたので体の調子がくるってしまった。 9日のネットで調子が狂った原因を理解することができました。 毎日の料理や家事全般、寝返りを2・3時間おきに打たせることなど、筋肉を使っていたのが、私の元気のもとであったのです。 102歳の医師、疋田善平さんの「満足死を目指す... 続きをみる
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第4コーナーを回って、米寿を目前にして「待つことの弱さ」を実感しています。 若いうちからその様な傾向はあったのかもしれませんが歳を取ってからひどくなったようです。特に、家族のことについては落ち着いて「待つこと」が出来ません。 わりと早いうちにその道の専門家に「お任せする」心は出来てきたような... 続きをみる
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人生の最終コーナーを回ってゴールまで一直線。87歳からの生き方を考えています。 妻が入院して、自分がこんなに弱い人間であったのかと思い知らされました。 強く生きるための生き方を学び直さなければと思っていた時に「一日一生仏陀の言葉に出会いました。最初が「遊行」です。 「遊行僧」は、外へ外へとひ... 続きをみる
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昭和30年代の初め教員養成の大学に在学中、OBS放送劇団のテストを受けて合格をした。 私の心の片隅に「声優」という思いがあった。憧れのようなもの。 放送劇団員としての基礎からの練習は楽しかった。 教員採用試験も受けて合格をした。さて、どの道へ進むべきか。 親をはじめ親戚一同から、教師の道... 続きをみる
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理想は高く掲げるが、毎日の実践は平平凡凡と粘り強く繰り返すだけである。 凡常にいつもと変わらない日常の生活の中で、教師としての使命感や責任感が静に深く伝わってくるような生き様がよい。 中でも「正義と公正」の姿が大げさにではなく極めて自然ににじみ出てくる生活態度がよい。「正義と公正」は、「信頼... 続きをみる
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いつの時代も教育という仕事は大変であるが、昭和・平成・令和の中でも今が一番大変である。 戦前戦中と教え子たちを戦場へ送り出した大変さと、戦後生きることのために罪を犯した教え子を見ることの大変さと、今、世の中が見えない時代の教育の大変さ。 どの大変さが一番なのかは、比較することは難しい。が、現... 続きをみる
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曲がりなりにもまともにここまでこれたことに感謝。 1 それ恕か。己の欲せざることは人に施すなかれ。 孔子 <学生時代の出会い。私の生き方の基本です。> 2 つまらぬものは一つもない。つまらぬというは己の小さき智恵袋 <般若の知恵 教職について。> 3 たくましくなけれ... 続きをみる
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卒寿小論 269 教員採用「囲い込み」「教員免許なし」でも(教育12)...
敗戦後、国は教育にどう取り組んできたのか。 1945年の敗戦から78年を過ぎた今、教員になり手がないということを通して、教育に対する課題を見直す時が来た。 優秀な人材を集めることは、教育に関しては無理な課題である。塾の講師なら優秀な人材を見定めることはできるだろう。 特に義務教育に関しては、... 続きをみる
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正義・礼儀・義務・抑制などが死語になりつつある危険 昭和20年代の敗戦後の日本は相当に乱れた。 そして、平成から令和にかけての今も相当に乱れている。 敗戦後の乱れと現代の乱れは何かが違うような気がする。 敗戦後の乱れは、命を繋ぐための食っていくための乱れで... 続きをみる
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同級生や同年輩の退職教員と顔を合わせると話がはずむ。 「今の時代(令和)だったら、務まらんで。あの時代だったから何とか務まったと思うな あ。」 あの時代というのは、昭和30年代で今現在85歳を過ぎた年齢である。 「いやあ、本当によく務まったと思います。」 「先輩が新任教員を連れてよく飲みにつ... 続きをみる
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「ここはお國を何百里 / 離れてとほき滿洲の / 赤い夕日にてらされて / 友は野末のずゑの石の下した」 聞き覚えのある久本先輩の声が、旅館の演芸場舞台の下手から流れてきた。二人が舞台に現れて、その様相をみて会場は爆笑に包まれた。 久本先輩と更に一回り年上の軍隊経験のある田崎先輩の変装に笑い... 続きをみる
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「理想を掲げないことには政治の道へは進めない。しかし、現実的に生きなければ票は集まらない。掲げたほとんどの理想は実現しない。だから理想なのかもね。」 福岡政治(まさはる)は、話し始めた。 今日は、新井市長の要請を受けて、市長秘書の長井恵介君の次期県議選立候補についての下準備の会合であった。 ... 続きをみる
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「今でも私は信じられないんだよ。」 「先生、ごめんなさい。自分でもどうしてこうなったのか分からないんです。」 「学生時代からずっと君を見守っていた。真面目で、がんばり屋で、明るく正義感の強い自慢の生徒だった。そのままの君が教師になって君の成長を一番の楽しみにしていた。」 「ごめんなさい。不正なお金... 続きをみる
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「おばさん、いい養子をもろうたのう」 「どこに、ちがうちがう、ありゃあ下宿人じゃ」 「下宿はじめたんか」 「上から順にみんな外に出っていって、部屋があいちしもうて、もったいねえじゃねえ か」 「そりゃそうじゃ。だけんど時間の問題じゃのう」 「なにが」 「なにがちゅうて、わかるじゃ... 続きをみる
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勝は、そっと空気銃を握ってみた。鉄の重たい冷たさが指先から骨にしみる。外は雪がちらつき南の街にしては珍しく冬らしい一日であった。 裏山の登り口には5年生になる弟の賢を待たせてある。家族の者たちは仕事で誰もいない。 空気銃を持ち出すのなら今だ。ポケットの中では空気銃の弾がじゃらじゃらと気ぜわし... 続きをみる
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月下美人 季節の花300より 花言葉「はかない美」「はかない恋」「あでやかな美人」 彼女はいつものように彼の帰りを迎えるために駅の西口、向かって左の入り口の端の方に立っていた。出札口から出てくる勤め人の中に彼の姿を求めていた。 ... 続きをみる
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季節の花300より コーヒーの実 世の中には自分にそっくりの人が3人はいるものだとよく言われているが、まことその通りである。 「電車でお会いしましたですね。今、お帰りですか。」 「はい。」 「あなた、ほれ、ほれ、名前が出てこない。あの女優さん・・・」 ... 続きをみる
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「去る者は日々に疎し」と言われるが、学生時代までの友情もお互いに結婚し、家庭ができ子ができ、職場がちがうと、もうそれは回想の中でしか感じ取ることのできない凍結したものになってしまうことが多い。 彼も私も、家はそれほど裕富ではなく、かといって他人が目をふさぐ程の貧乏でもなかった。昭和初期における下... 続きをみる
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歳をとってくると時々夢を見ていると意識して夢を見、夢ではないと意識しながら夢を見ている時がある。夢と現実が夢の中で交差する。何とも不思議な体験をすることがある。 ある日、ばったりと、仏さまにおあいいたしました。 絵や彫刻にある仏さまのお姿とすこし違っていましたので、最初の数分間は判断がつきま... 続きをみる
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「吉」の字を秀吉より頂く(かたいみな) 大友宗麟の嫡子、吉統(よしむね)は、吃りであった。 吉統が吃り始めたのは、ちょうど満二才の誕生日を過ぎた春、一五六〇(永禄三年)の桜の花が春の嵐に舞い散る心の痛む一日であった。 この日、吉統は強い風のために庭に出る... 続きをみる
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「もしもし、もしもし・・・」 妻はちょっと怪訝な顔をして夕食の席に戻ると残ったご飯の上に塩昆布と梅干を一個のせて濃茶をかけて流し込んだ。 夫の啓一は食事を終えて娘と将棋盤に向いあって駒を並べ始めた。 「あなた、女の人の声よ。」 「どうかしたのか。」 「切れたのよ。」 「まちが... 続きをみる
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朝 顔 季節の花300より 花言葉「はかない恋」「固い絆」「愛情」 「ヨッチャン」 「タックン」 天神渡辺通りでの35年ぶりの再会であった。 「ヨッチャン」「タックン」とお互いの名前... 続きをみる
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K 町 役 場 ここは大分県の南の端、いわしと芋の産地K町である。K町におろやんとしめやんという実に仲のよい二人のおばあさんがいた。どうしてこの二人、仲がよいかというと、ちょっとしたわけがあった。 おろ... 続きをみる
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安男は無神論者であった。 今年3月に満60歳の定年退職をして、悠々自適の年金生活に入った。三歳年下の妻、哲子もいたって健康で、長男夫婦に二人の孫、娘夫婦に一人の孫、計三人の孫に恵まれて順風満帆の生活を送っていた。 安男は根っからの無神論者で神も仏もその存在... 続きをみる
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コスモス 季節の花300より 花言葉 「乙女の真心」「調和」「謙虚」 昨年の秋だった。油ぎった夏からからりとした秋風が吹く頃に毎年開催されるアジア心理学研究会に参加した。 九州在住の心理学... 続きをみる
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サラーリーマンにとって土曜日の夜なんざあ、まさに天国ですなあ。近頃は週休二日の所が多くなって、金曜日がキンキンキラキラ金曜日と言って、土曜日から金曜日に天国が移ったそうですが。 まあどちらにしても、それぞれが好きなことに生き甲斐を感じることで、結構なことです。 趣味の多様化、個性化などと申し... 続きをみる
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12月24日、クリスマスイブの朝であった。 今年、一番の寒さとなり、湯の町にはめずらしく粉雪がちらつき、1945年(昭和20年)の終戦の年は日本全土が厳しい生活を強いられていた。 なんといっても、働き口がない。駅西口、当時は裏駅と呼び、東口の海に面した通りのほうを表駅と呼んでいた。 裏駅か... 続きをみる
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特急の寝台車の中で着物のよく似合うご婦人と同席した。 珍しく寝台車は空いていてゆったりとした気分でそれでいて少しだけ華やいで心臓の動機が聞こえてくるような旅ができそうな予感がした。 駅に着いたとき婦人は退屈そうに車窓の夜景に自分の姿を重ねて髪を手で軽くなでた。私は何気なしに週刊誌より眼をあげ... 続きをみる
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無花果 季節の花300より 「死にましたってなあ。よんべこそ、わけえしに混じって、酒を飲んじょったちゅうがやっぱり心臓麻痺か何んかで、ほう、脳充血ですか、誰れがいつころっとい... 続きをみる
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梅 季節の花300より 花言葉は「高潔」「忠実」 「おかあさん、もう帰るの」 恵美は残念そうにつぶやくのがくせになってしまった。 「そうそうお前のおつき合いもできないよ。早いもんだね。お前が結婚してもう二ヶ月が経ったよ、頑張らなきゃあ... 続きをみる
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カエデ 季節の花300より 花言葉 「大切な思い出」「美しい変化」「遠慮」 「もう焼けたんじゃないんか。焼けたら一番にばあちゃんに持っていかにゃあ」 長男のはじめは、酒の燗をつけながら、妻の滝子に言った。 村の秋祭りの日、おかよばあさんの... 続きをみる
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大分合同新聞掲載の挿絵より 初秋の風に誘われて、別府の郊外を歩いていた時のことである。 白髪の白衣を身につけた一見医師風の老人が、松林の中から姿を現し、私に声をかけた。 「散歩ですかな、人の通らない生まれたばかりの風景の中を歩くのは好い気もちですな」 「ええ... 続きをみる
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大分合同新聞掲載の挿絵より 佐野啓一、四十歳。東京のN大学教育学部心理学科を卒業して、現在は地方大学の講師。連続する雨の休日にいささかうんざりし、望遠鏡のレンズを磨きながら、フラストレーションの蓄積にイライラしていた。 ゆうべの天気予報では、きょうは午後... 続きをみる
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大分合同新聞投稿の挿絵より 彼、1931年(昭和6年)1月1日生まれ。当年40歳。東京の大学、教育心理学部を卒業して、地方大学の講師をしている。 学生時代は行動的で雄弁家で人付き合いも大変評判のいい... 続きをみる
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冷たい冬の星座が、ちかちかと輝いていた。 空を仰ぐのも久し振りだ。振り返ると、街路樹の彼方にオリオンが澄んで見える。突然、進の背後から、けたたましいサイレンの耳をつんざく音が追いかけてきた。酒に酔った頭は一瞬混乱し、そして、異様に冴えてきた。もう忘れてしまっていたはずの二十数年前の記憶が体の中... 続きをみる
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大分合同新聞掲載の挿絵より 国に国境があり、県に県境があるように、血縁の親子の中にも越すに越されぬ境がある。 このなみだ橋は、町と村との境を流れる谷川にかけられている幅三メートル、長さ五メートルほどのごく小さい橋である。小さな橋ではあるが村に住む人々... 続きをみる
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大分合同新聞掲載の挿絵より 昨日の寒さはうそのように、今日は春めいた風のない日差しが窓から差し込んでいた。机の上には、首を高く突き出したシクラメンの花が四つ咲いていた。 社員は昼食に、また、昼休みのスポーツにと部屋を出払って、一人健吉だけが妻の手作り... 続きをみる
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大分合同新聞掲載のさし絵より ボラ、チヌ、イサキ、ハマチ、アジなどが釣れはじめると、この僻南の寒村も釣り人たちでにぎわい始める。特に土曜日の午後は泊まり込みの客で満員である。 それを当て込んでか、この地に、ちょっとデラックスな金持ちの退屈しのぎの片棒をかつぐよう... 続きをみる
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安政五年(一八五八年)佐野島大火三十四戸焼失。その年、島民は生活に必死であった。働ける者はみな働いた。漁に畑仕事にと。 源造も夜のあけぬうちから、裏山の段々畑で芋のとこ作リに汗をかき、太平洋の黒い海原から昇る朝日を拝んで一息いれた。 「やせた土地には、さつま芋が一番。」 源造は一人言をいいな... 続きをみる
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5月の連休に喜寿を祝う同窓会に参加した。 古希の同窓会が最後の同窓会になると思っていたのに、あれから7年過ぎて仲良し3人組が元気で喜寿の同窓会を迎えた。 今回の同窓会は皆の胸の内に最後かもしれないという思いがよぎった。 小学校から高等学校まで同級生として柔道や陸上を共にしてきた。卒業しても... 続きをみる
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木々の葉も色変わり、公園のそこここに落葉の吹きだまりが、音をたて移動し、赤く咲き残るサルビアの花にも、さみしさと人恋しさを感じる季節。 公職を退いて、早、半年が過ぎ、今では唯一の日課が、こうやって、夕食前の一時、郊外を散策し、公園のベンチで一服することになってしまった。 現職当時は、退職して... 続きをみる
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1972年(昭和47年)35歳の夏 その日はどんよりと曇った一日であった。 昭和の時代の教員は、夏季休業中は自宅研修という名目で自分の意志で自由に過ごすことができた。よき時代であった。 県下で初めて、学校現場での「ことばの教室」を開設して言語障害を持つ子どもの訓練に取り組んでいた。障害を持つ... 続きをみる